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女人哀愁のharunomaのレビュー・感想・評価

女人哀愁(1937年製作の映画)
4.3

 開始早々からカッティングインアクション(新たな身振りのためのカメ位置、サイズ、構図変えも含めて)、完璧なデクパージュの嵐が吹き荒れ、会話時の移動撮影、ラインの侵犯、繋ぎじゃないショットすらある(この時代の技術的な問題だが、陽光の公園にいる人物たちの抜けは白飛びし、昼間から幻想的な靄が揺曳していく)デクパージュと人物の動かし方、台詞の感じが万田さんの演出を思わせるしどうしたことか。そう、この演出が理想であり、映画教育の正解、つまり然るべきスタッフと然るべきプロの俳優がいれば完璧な演出が文字通り映画に活かされるのだから、金も俳優もいない場所で演出のみ(演出家のみ)を声高に唱える現代の零細企業の詐欺紛いの映画教育は、すぐにやめるべし。オーケストラのいない指揮者一人だけの頭でっかちの舞台で映画は奏でられない。

 入江たか子は、数本しか観たことがないけど、瓜実顔の山田五十鈴、鼻声は高峰秀子、今回はあくまでダウナー版の山本富士子のような瞳、のような印象を受けた。成瀬の男たちの顔は、あるいは人物のあり方は基本的に気持ち悪いと受け取ってしまう。豊満でとぼけた加山雄三と仲代達矢以外もしかしたら好きではないかも知れない...。わたしは基本的にはかなり明確に溝口派だ(1955年、助監督に勧められて、当時大ヒットしていた『浮雲』を観た後に助監督に言った溝口の言葉はこうだ「成瀬君には金玉がついているんですか」。わたしは溝口の感想に概ねほとんど同意するだろう)小津や溝口のモンタージュ(ワンシーン・ワンカットの長回しであっても溝口の1ショットにはモンタージュが内包している)、人物の情動性に比べると、わたしとしては成瀬はデクパージュであり、変態長距離ランナーである。

 いつバーストするかと思っていたら、ちゃんと手紙に爆発と書いてある律儀さ。無神経で無意識的な横暴さを示す普通の家庭のクズたちを、いつ一家全員を殺戮するものかと楽しみにしていたが、成瀬の映画にそんなことはあるはずもなく、74分であっても長距離で落ち着かなかった(であるからこそ、ある観客にそう思わせる意味で作劇は完全に成功している、同じような意味では濱口もまたわたしには焦ったい変態長距離ランナーだ、この人たちは物語を受容する側ではMなのだろう)子どもたちがメインのシュールなギャグには救われた。ここにもナンセンス万田な感じがしたのだが。

 義父義母に及ばず、高校生の娘にも、小学生の男の子にも、用を言いつけられ女中のように働く、夫には物静かで従順な人形のように扱われる。ある夜、家族全員の要求に応えていく和服姿の入江たか子は、目まぐるしく家の中を移動し、迷路のような左右の襖や廊下の障子の、あらゆる引き戸の出入りの彼女の身振りによって日本家屋を迷宮へ変貌させ、玄関でもどこでも、あらゆる場所に現れる入江たか子の忙しない運動とスピードは、スクリューボール・コメディのようでもあり、入江の戸惑いを感受しつつも、反復する運動と扉による空間のダイナミックなあり方は痛快だった。反対に権力構造が反転する後半の大舞台では襖を開けた居間の二間と奥の廊下と玄関まで使い、強力な縦構図で切り返し、あるいはトラックアップを用いて、究極にスマートな闘いを演出する。一人黙って暗がりに座り込み、この世界の不条理な受難に向かい合う凛々しさすらある哀しい表情(声の聞こえない欷歔が彼女の顔全体にみなぎっていた)も素晴らしかったが、下向き加減の顔に、冷たいスノーホワイトのような不穏で不気味ともとれる最上の笑みをきめる入江たか子の男への応答が、この映画の頂点のバーストであった。それにしても、な、長い...。

成瀬のトライアスロンは苛烈である。3つの夜の背中で終えてもいいものを、後日、やはり靄がかった巨大な都市の天上に立つ晴れ晴れとした入江の顔を、確信を持った人生への態度表明の科白とともに、ゆっくりとキャメラは、彼女を中心に回り込み、至高の光を受け取るかのようなその彼女の瞳の輝きをとらえるべく、ささやかに仰ぎ見るように正面の顔がこうして現れ、長い旅は終わり、そして続くだろう、いま現在の東京でも成瀬のトライアスロンは、いや、その闘いは継続中だ。
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