パングロス

お早ようのパングロスのレビュー・感想・評価

お早よう(1959年製作の映画)
2.7
◎小津版サザエさん 婦人会費とテレビ買っての巻

デジタル修復版(1959/2013年)による上映
*状態は頗る良好、セピアがかったカラーも味に。

多摩川に近い(蒲田あたり?の)小さな区画に同じ仕様の建売文化住宅(*)が数軒並ぶ小住宅街を、かつて庶民が暮らした長屋に見立てた日常ネタのホームコメディ。
*本作の舞台を「郊外の新興住宅地」とする記載が多いが違和感がある。世田谷、杉並あたりの台地上の分譲住宅地ならそれで良いが、映し出されているのは同規格のいわゆる和洋折衷の文化住宅(関西でいう二階建てアパートを言うそれとは違う)である。

ちょうど4コマ漫画をつなげたテレビ版サザエさんと同じく、小さなエピソードをないまぜにしたある種のオムニバスコントと言える。
【以下ネタバレ注意⚠️】






扱われているネタは、
◯小学生のオナラ遊び
◯婦人会費の着服疑惑騒動
◯テレビ大好き小学生
◯押し売り撃退法と、それへの対抗策
◯テレビ買っての兄弟、無言の行を続ける
◯失業青年の英語講師、小学生を家に帰す
の6つぐらいか。

それに、
・小学校低学年の林家の次男勇(島津雅彦)が、英語を習っているせいか、いっぱしぶって「アイ・ラブ・ユー」を連発するとか、
・住宅街の子どもたちが、オナラ合戦に熱心なあまり、効果があると聞いた軽石を飲むとか、
・その家庭では、主婦が軽石が減ってるのを不思議がってネズミって軽石齧るのかしら、と言ったり、
・英語を教えてくれるアパート暮らしの失業青年福井平一郎(佐田啓二)が、軽石なんて飲んでると死んじゃうんだぞ、と言うと、子どもたちは急に腹痛を起こすとか、
そういう類いの、実に他愛のない小ネタで彩るといったあんばいの作り。

本当に、まるでサザエさん、なのである。

面白くないこともないが、戦前の『淑女は何を忘れたか』(1937年 2024.3.15レビュー)や本作前年の『彼岸花』(1958年 2024.3.24レビュー)のような、爆笑喜劇でありながら人間心理への省察を思わせるような深みとは全く無縁である。

『小津安二郎大全』は、本作は、サイレント時代の『生まれてはみたけれど』(1932年 未見)を下敷きの一つとしたのだろうと推測している。
だが、戦後出来の無個性な建売の文化住宅が並んでいても殺風景なだけ。
新時代を感じさせるのは、テレビや電気アイロンといった、ようやく庶民にも普及し出した電化製品の類いだけで、市井の人びとの生活実感や戦後の思想的転換などに迫ろうという意図は何もうかがえない。

たんなるコント、笑劇は、チャップリンやロイドのひそみに倣ったサイレント時代ならともかく、戦後も高度経済成長が始まろうという1959年に作らねばならない必然性は全く感じられない。

はっきり言って、小津作品としては、凡作と断じなければならない。

今回のように小津映画を集中的に観ていくと、作品相互の連関が見えて来るのも興味深かったが、小津という作家には明らかに好調、不調の波がかなり激しくある、ということも見えて来た。

本作に近いところで見ると、
1956年の『早春』は冒険大作にして健闘
1957年の『東京暮色』は冒険したが大失敗作
1958年の『彼岸花』は脚本も優れた大傑作
1959年の『お早よう』は自作焼直しの凡作
1959年の『浮草』は自作リメイクながら名作
といったあんばいで見事な波形を演じている。

なお、レビューサイトでは、小津作品はなべて高スコアである。
確かに、評論家や映画作家には、『東京暮色』や『お早よう』を高く評価する向きもなくはない。
しかし、評論家は独自の視座を持つことが求められるのだから、いわゆる世評の逆張りを好んで行う習性がある。
また、映画作家は、名作、傑作にうなるばかりではなく、失敗作のなかにこそ監督の目指そうとした作為を読み取り、それを自己の創作の糧にしようとするものである。

それを一般の映画ファンが、いっぱしのシネフィルを気取って、小津作品と言えば、すべて名作だとばかりホメるしか能がないのは、思考停止の極みだと言うしかない。

おそらく若い世代の感想と思われるが、カラーで状態のいい『彼岸花』でさえ、言葉が聴き取れないという。
確かに、語彙も、話し方も現在とは違うところもあるだろうから、すぐに理解できないところもあるだろう。
わからなかった点は正直にわからないと告白して、何年かおいて、再見の機会を作って欲しい。
きっと、以前わからなかったところが理解でき、以前の感想とは違った見方ができるようになるはずだから。

シネフィル・ワナビーが小津をやたらスゴい存在だと崇め奉るのは、もとより何かの宗教の妄信と同じだし、小津作品をたんなるファンムービーに貶めることにもなるはずだ。

閑話休題。

さて、本作は、何も新しさを感じ取れないばかりか、旧世代の悪弊だけは健在。
しかも、それに対する批判的な視座が何も用意されていない、という意味でも、有害な作品となっている。

テレビが欲しいと駄々をこねる、実(設楽幸嗣)と勇(島津雅彦)の兄弟に対して、林家の家長として父親の敬太郎(笠智衆)曰く、
「何だ、つまらんことをペチャクチャ喋りおって。
女の腐ったみたいに。
くだらんことを喋らずに、男なら黙っておれ!」
と、叱る。

母親の民子(三宅邦子)が、叱る際は、
「言うことを聞かないと、お父さんに叱っていただきますよ」
と言う。

この小住宅街の主婦たちは、相互の家を長屋時代よろしく親しく出入りするまでは良しとしても、行く先々で第三者の陰口をあることないこと吹聴する。
果たして、戦後14年目にして、実際の主婦たちの間に、そうした悪弊に対する反省はなかったのだろうか。
小津の描き方は、主婦という存在を、あまりにも馬鹿にしてはいないだろうか。

押し売りの描き方にしても、殿山泰司演ずる押し売りAは、
「ゴム紐、歯ブラシ、鉛筆、亀の子たわし」
を売りつけるという、これもサザエさん並みの古い描写。
まぁ、これは、次に来訪する、「消防署の方面からも推薦されてましてですね、この防犯ベルは」と、巧みに電化製品流行りを狙って防犯ベルを売りつける押し売りB(佐竹明夫)の前振りに過ぎないので許容範囲かも知れないが(笑)。

それにしても、小津のオナラ好き、ウンコ好きよ。

おまけに、『東京暮色』『彼岸花』に続いて、ラーメン屋「珍々軒」がまた出て来た。

小津の下ネタ好き、それも本当に小学生並みの「ウンコちんちん」好きレベルなのだから呆れるばかりだ。
(ウンコについては、杉村春子の息子役の小学生が軽石の飲み過ぎか、再々下痢をしてパンツを汚すというネタが繰り返される。)

小津という人は、もっと質の高い巧みな喜劇も作れるというのに、いったい何をしているのか。

佐田啓二、久我美子という若手スター、
笠智衆、杉村春子、沢村貞子、東野英治郎、長岡輝子といった海千山千の名優たちの、まさに無駄遣いである。

そう言えば、『東京暮色』の産科医に続いて、怪女優三好栄子(役名は原口みつ江)が産婆を演じ、押し売りを追い払っていた。
殿山泰司と並べて、飛び道具も使ってみました、ということだろう。

ともかく、小津あるあるの緑のヤカンが出て来ましたね、小津のフィックス構図決まってますね、とか言うのは勝手だが、作品の出来は出来として正しく評価して欲しい。

そうそう、音楽は、いつもの斎藤高順に替わって、現代音楽のホープ(当時)黛敏郎が担当。
ところが、これがよろしくない。
ユーモア路線を狙っているのだが、冒頭のモーツァルトのジュピター冒頭の引用から始まって、全てが事ごとしく良いあんばいを欠いている。
本作における小津のオナラねたもそうだが、ふだん真面目な人物が目いっぱい冗談やってみました、という感じの痛々しさがある。

このあと、『彼岸花』で斎藤高順の劇伴を聴いて、それまでは凡作な音楽家だなぁとしか思えなかったのが、実に本編を邪魔しない良い加減な音楽だと再認識した次第。

黛の起用も失敗のうちである。

あっ、もとい。
そう言えば、終盤、タイトルにもなった「お早よう」とかの無駄なあいさつ言葉も必要なんだ、という会話を伏線として、駅のホームで、佐田啓二と久我美子が雲の形がどうのこうのと無駄な会話をするところだけは、爽やかな青春の含羞があって良かった。

よってスコアに 0.2 プラスします。

《参考》
生誕120年 没後60年記念
小津安二郎の世界
会場:シネ・ヌーヴォ 2024.3.2〜2.29
www.cinenouveau.com/sakuhin/ozu2024/ozu2024.html
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