ケンヤム

ミリオンダラー・ベイビーのケンヤムのレビュー・感想・評価

ミリオンダラー・ベイビー(2004年製作の映画)
4.7
クリントイーストウッド監督作最大の特徴「王道からの逸脱」
王道を生きてきたクリントイーストウッドにとって、王道からあえて逸脱することは、宿命でもあるのだと思う。

王道を生きるということは、人間の尊厳を体現するということだ。
この映画でイーストウッドが、人間の尊厳を問い直すことは彼にとって必然だった。
主人公のチャンピオン戦の入場シーンが葬列のように見えるのは、彼女が神に捧げられた生贄だからだ。
運命を象徴するイーストウッドのように、彼女も人間の尊厳を象徴する生贄として、リングという祭壇に捧げられる。
そこで対戦相手は無感情な執行者でしかない。
何も考えず、神に生贄を贈るためにリングに送り込まれた執行者。
そして、この映画でもイーストウッドは西部劇で彼が一貫して演じ続づけた執行者としての役割を背負うことになる。
椅子を差し出すフランキー。彼は椅子を差し出すというその行為をもって、執行者としての宿命を背負う。

そして忘れてはいけないもう一組の執行者たち。それは家族だ。
家族はこの映画でパーソナルな部分がほとんど描かれない。
ただただ主人公を痛めつけるためだけに存在する。
主人公の人間の尊厳を象徴する生贄としての役割を試すかのような振る舞いを繰り返す。
彼女たちのあからさまな悪人顔の仏頂面。

クリントイーストウッドは善と悪の二元論を引き受けながら、その二元論の仕組みすら映画の中に組み込み、人間の尊厳を際立たせる演出上の道具として利用してしまう。
そこでは、人間の誇りや生きる意味や信仰の問題などの、意味のための意味、言葉としての言葉は全て無意味だ。

尊厳の奪い合いとしてのボクシング。
人が血を求めリングの上で殴りあうのは、誰かの尊厳を殴り倒すことで自身の尊厳を確立させたいからだ。
モーガンフリーマンのファウストとしての役割。
「一度くらい負けることはあるさ。次はチャンピオンだ。」とガッツ以外に何ももたない誇りなき青年に語りかけるモーガンフリーマンは、地獄への案内人だ。
地獄への案内人に導かれた主人公は、そこにただ横たわることしかできなくなった。
横たわることが、フランキーのいうレモンパイの美味しい、本を読むのに適した陽だまりのあの小屋に行くための振る舞いなのだとしたら、呼吸器を外し致死量の三倍ものアドレナリンを彼女に打ち込んだフランキーが最後、あの小屋に座り、入り口の窓ガラスにうっすらと浮かび上がるのは当然の帰結のように思う。
フランキーも横たわることで、あの小屋へ行く資格を得たのだ。
横たわる姿は一切うつされないが、横たわったのだ。
身体性を失うことで、精神は解き放たれる。
ボクシングに打ち込んできた彼女とは、まるで正反対の方向で、身体性を失った後の彼女は、身体性という精神を縛る鎖から解き放たれたのだ。
追い込まれて体が疲弊しきったとき、体が「ここからは俺に任せろ」と声を上げる。考えるのはノックアウトしてからだ。
私たちが肉体を鍛錬したときに得られる快感には、身体が疲弊したときに出されるアドレナリンが作用している。
そう、フランキーが彼女に打ち込んだアドレナリンだ。
彼女の死ぬときだけでなく、フランキーは彼女にアドレナリンを打ち込み続けてきたのだ。
アドレナリンという麻薬を使い続けてきた主人公は、それが当然の報いとでもいうかのように、自身の身体性の喪失を受け入れる。
運動が生み出すアドレナリンという物質の快感の虜になった彼女は、それ無しじゃこれから生きれないことを知っている。
だから、彼女は舌を噛み切る。
絶望ではない、わたしは生きたのだという表現として、舌を噛み切るのだ。
本当の意味で生きたことの当然の報いとして、彼女は死ぬのだ。

そして、人間の尊厳の体現者としてのイーストウッドは致死量の三倍ものアドレナリンの入った注射器をカバンに入れたままあの小屋でレモンパイを食らいながら、好きな本を読み続ける。
モーガンフリーマンは、地獄への案内人としてあの寂れたジムでこれからも根性しか持ち合わせていないアメリカンドリーマーたちに囁き続けるだろう。
「誰にでも一度くらい負けることはある。次はチャンピオンだ。」
ケンヤム

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