タケル

ランボー/怒りの脱出のタケルのレビュー・感想・評価

ランボー/怒りの脱出(1985年製作の映画)
4.5
ベトナム戦争後のアメリカの闇を描き切ったとされる第1作。それに対し、アクション作品としての色が強まり、メッセージ性が希薄になったとされる第2作。そう書かれた多くのレビューを目にし、続きを観るか悩んでいた。

同じ境遇にある人には、こう言いたい。「恐れることはない。ただ、心して進むように」。第1作を上回る熱狂と哀愁がそこにある。問題はそれをどう受け止めるかだ。

たしかに、アクションシーンの質は明らかに高まっていた。一方で、過剰さを突き詰めることで、ある意味アクション作品の枠組みを超えてしまっていたようにも感じられる。特に、戦闘機で基地を破壊するシーンでは、あまりの過剰さに思わず笑いそうになった。おそらく監督もそのことに自覚的で、"シリアスな戦争"という設定を突き詰めることでむしろ相対化していたのだろう。それはまるで、「これはあくまで物語である」と観客に感じさせるような、突き放した態度だ。ランボーの異様なまでの強さが、作品の虚構性を執拗に強調し、我々を物語の外へと追いやる。

メッセージ性の観点では、ベトナム戦争という負の歴史を、兵士をスケープゴートにすることでやり過ごすアメリカ国民の姿を引き続き告発していた。今作ではそれに加え、安全地帯で指示を出す権力者と使い捨てにされる現場の兵士の対立構造が描かれていた。この構図は普遍性を帯びている。一部の力を持つ者が築き上げたシステムに組み込まれ、機械のように"制御'される我々という、あまりにも普遍的な悲劇をランボーは打ち砕いてくれた。「俺だって人間だ」と言わんばかりの悲痛な雄叫びに背中を押されているようにも感じた。

だが、我々はランボーの"味方"ではない。むしろ、モニター越しに指示を出す司令官の側にいる。ランボーのことを哀れに思うことはできても、手を差し伸べることはできない。それどころか、彼にとっての"死闘"をその過剰さのあまり非現実的であると笑うのだ。観客に戦闘シーンを「あくまで物語」と感じさせるような、過剰を極める手法はここで意味を持つ。我々はランボーの痛みなど知ることはできないという素朴な事実を突きつけられているのではないか。

ランボーは愛を求めている。だが、その痛みを知れぬ我々が彼を愛することができるのか。知ったかぶれば傲慢であり、知ることなどできぬと言い切るのは非情だ。なんという難題だろう。この問いを投げかけられているのは、"無責任なアメリカ国民"だけではない。そう感じずにはいられない。
タケル

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