Jeffrey

人生は琴の弦のようにのJeffreyのレビュー・感想・評価

人生は琴の弦のように(1991年製作の映画)
4.5
「人生は琴の弦のように」

〜最初に一言、超絶大傑作。「さらば、わが愛/覇王別姫」を監督した中国第五世代の名匠チェン・カイコーが描く壮大な叙情ロマンであり、VHSに埋もれた紛れもなく最高の芸術的ドラマである。私はこれを映画史上最も風変わりなミュージカル映画に位置付ける〜

冒頭、むかし、中国に三弦琴を演奏し歌う師匠と弟子がいた。先代の師の教え、嘘の事実、墓を壊し、絶望する。松明の炎が美しく燃え、月明かりに照らされる岩。黄河と滝、村人の争い、神、うどん屋、処方箋、死。今、老若二人の盲目の旅芸人が放浪を重ねる…本作は私が生まれた年の九十一年に中・日・独・仏・英合作で、その二年後にパルムドールを受賞した大傑作「さらば、わが愛/覇王別姫」を監督した中国第五世代の名匠チェン・カイコーが描く壮大な叙情ロマンで、黄河流域の広大な大自然の風光明媚がまぶたに焼きつく大傑作である。この度、廃盤のVHSをなんとか入手して初鑑賞したが素晴らしいの一言に尽きる。この作品が未だに日本で円盤化されてないのが信じられない。本作の原作は、文革世代の史鉄生による短編を映画化したもので、彼も文革中に農村に下放されていて、監督と同じである。さらに骨髄多発性硬化症のためか半身不随になり、北京に戻って街工場で働きながら作家を志したとのことだ。また、この作品で演奏される歌曲は、すべて現代中国を代表する作曲家瞿小松のオリジナル作品である。瞿小松も文革世代で、監督との共同作業は長編デビュー作の「大阅兵」から続いて三作目になる。

これロケーションが内モンゴル自治区だったり青海省、山西省の荒涼とした砂漠や黄河上流の大自然の中で二千人の村人の協力をえて撮影が行われているようで、後ほども言うが、主人公の青年はモンゴル系ぽい顔立ちをしている。詳しく調べてないから、漢民族っぽい感じがあまりしなかった。でもきっと中国人なんだろうけど、彼は(黄磊)本作がデビュー作らしく、恋人役の蘭秀と黄磊は同じ学院出身の女優らしい。そんでうどん屋の女将役の美しい女性はファッションデザイナーなど多彩な活動をしているらしい。本作は中国の作品としては初めて、日本の外ヨーロッパ(独仏英)映画会社の共同出費で制作されている。本作は決してミュージカル映画ではないが、非常に音楽が持つ意味が伝わる作風になっていて、不思議な映画である。音楽が極めて重要な役割を果たしていると言ったほうがわかりやすいかもしれない。と言って、その事柄について話のすとネタバレになる恐れがあるため言えないのが心苦しいが、ありとあらゆる西洋のオーケストラ的な演出(オーケストレーション)の巧みさを始めとし、中国の伝統音楽の語法との間に起こる摩擦とダイナミックな音楽プランが立てられており、少ない音楽を控えめに使うことによって映像の表現力として発揮させることに成功している。

そもそもこの映画は非常に不思議な映画である。結局のところどういった物語なのかと説明しろと言われたらスムーズに正直話せない。とりあえず盲目の師匠とその弟子が中心に描かれているのだが、琴の箱が開き、その中に入っている処方箋の秘密が溶けて薬を手に入れることができるまでの事柄を描くのだが、それは盲目を治すための薬であって、千本めの弦が切れた時に初めて生じる現象であると言うのだが、それは結局〇〇になってしまう。しかし、映画を観ると自ずとシックリと来るのだが、説明しろと言われると中々難しい。何故、歌うのか。何故、盲目なのか。誰のために何十年も放浪をするのか。何故、彼女は〇〇するのか。何故、その歌声で闘いは治まるのか。など様々な事柄を説明できない…。それらは音楽で解決するべきなのかも知れない。聴く者の耳に心を捉えて離さない、そんな映画であった。さて、ここから物語を説明する。




さて、物語は昔、中国に三弦琴を演奏し得た二人の盲目の旅芸人がいた。年老いた師匠は、先代の師の教えを信じていた。その教えは、一生を楽の音に捧げ、弦を千本弾き切ったときに、琴の中に入れた処方箋が効力を表して目が見えるようになると言うものだった。彼は、弟子のシートウとともに、村から村へと歩き、修行を積み、もう少しで千本の弦を弾き切ろうとしていた。ある日、二人は黄河の瀑布のほとりのなじみのうどん屋を訪れた後、荒れ狂う河を渡って、辺境の村にたどり着いた。村人たちにとって、師匠は神のような存在であった。たったー曲の歌で、村同士の戦いを鎮め平和をもたらすほどの力を持っていたからだ。一方、シートウは村の少女、蘭秀との恋に夢中になっていた。しかし、彼に芸を受け継がせようとしている師匠は、二人の中を心配する。とうとう、師匠が千本の弦を弾ききるのもあとー本となった。

師匠はこの最後の弦は、自分のためだけに弾くと言い残してー人丘の上で弾き続ける。真昼の太陽の下、最後の弦は切れた。師匠は、琴の中の処方箋を勇んで町の薬局にもっていくが、処方箋はただの白紙だった。師の教えを信じ、六〇年間ただこの日の為に生きてきた彼は、生きる意味を失ってしまう。先代の師の墓を叩き壊し、黄河のうどん屋で、狂ったように酒をあおる師匠。うどん屋の主人は、人生は舞台に立つのと同じこと、良い舞台にもなれば、ひどい舞台にもなる。終わらなければわからないと彼を論す。一方、シートウと蘭秀は、彼女の家族や村人たちにその関係を責められていた。追い詰められた彼女は崖から身を投げる。村に帰った師匠は、盲目のままの自分に驚くシートウに、目が見えるようになりたいのなら、自分の琴をー本ー本力を込めて弾けと言う。そして村人たちが集まる中で、歌を歌うことの喜び、生きることの喜びを歌った。やがて、師匠は死んだ。シートウはー人旅立つ。新しい人生をしっかりと自分の足で踏みしめながら…とがっつり説明するとこんな感じで、陳凱歌が三十二歳の時に長編デビューした「黄色い大地」経て、「大閲兵 」「子供たちの王様」そして「人生は琴の弦のように」を監督した長編四作目に当たり傑作を生み出した。

そもそも彼は五十二年北京生まれ出て初等中学の時に文化大革命が起こり、十六歳で雲南省のゴム園に下放されている。七十五年に北京に戻るが、この間の経験は彼の作品に大きな影響及ぼしていると言われている。そして七十八年より北京電影学院監督科に学び、卒業後は進んで地方の広西撮影所に志願している。そうした経歴を持ち中国第五世代の若手監督の一人として世界で注目されるようになり、確かニューヨークに三年間滞在した後、ベルリン国際映画祭に審査員として招かれて国際的に活躍し始める。いゃ〜、冒頭のシーンからこれ傑作だわ…とつい口ずさんでしまうほどの圧倒的な美しく魅了される静謐な青みがかったファースト・ショットの中に弦のかすかな音が聞こえ、次のカットで、広大な大地がロングショットで捉えられるのが素晴らしい。これぞ中国映画と言わんばかりの演出の仕方だ。

あの序盤で滝をバックに神輿を男たちが上半身裸で数十人担いで前進していくシーン圧倒的だ。それから砂漠(ゴビ砂漠と思われる)の数人の娘たちが砂をかけて老人が歌う場面も印象的。それにこの映画のシンボリックな巨大な隕石のようなものがオブジェのように荒涼とした地にそびえ立っているのがすごいインパクトある。それから村人が松明を手に持って数百人集まり真っ赤に画面が染まる夜の幻想的な儀式のシーンは圧倒的である。どこかしらまだ「黄色い大地」の面影がある。本作の主人公の青年役の人がすごく魅力的で、漢族と言うよりかはモンゴル系もしくはチベット族の民族に感じてしまう。村人同士が大地の上で争うロングショットがあるのだけど、すごく圧倒的で、老人の歌と共にスローモーションで映し出された時、戦火の声が鳴り響いたり、もはやこの場面はミュージカルである。これはチェン・カイコーの「黄色い大地」にもあった。人の群れのショットが原始的である。クライマックスの凧揚げのショットも余韻が残る。

それにしても盲目の二人の旅芸人の物語を描いてしまうなんて風変わりだなと思う。それに中身を見ると先代の師匠の教えを信じて修行を積んでいたにもかかわらず、それは叶いもしない幻想だったと言うことで、絶望する老人が、村の人々からは神様のように慕われていて、一方もう一人の若い弟子の青年は琴の修行より旅先で知り合った少女との恋愛に夢中になる始末だし。それを詩情たっぷりに描き出している点は非常に評価できる。しかしながら盲目で目が見えないのに恋愛が順調にいくと言うのも健常者の私からしたらそういうものなのだろうかという疑問がついてしまうが、青年が彼女の顔のパーツを一つ一ついじっているときのエロチシズムはたまらなかった。特に唇をいじる際は。どうやら人生にとって夢や希望が大切なのであって、それが実現するかどうかは二次的なものに過ぎないと言いたいかのようなプロットである。この作品は中国を舞台にしているが、中国だけではなく世界に言い切れる未来への望みが描かれている。

この作品主に四つのパートが組み合わされている。まずは盲目の師匠と弟子、そして恋人と弟子の話、そして争いが絶えない村人たちの話、激流のほとりにあるうどん屋の主人と美しい女将との絡みである。その中に三つの要素、愛、死、欲望と言う人生に付き纏うものが描かれている。それを黄河流域の広大な大自然とともに映し出しているため、非常に叙事詩的であり美しいのである。本作はカンヌ国際映画祭正式出品、ロカルノ国際映画祭、シンガポール映画祭アジア優秀映画賞を受賞しており、ヘラルドエース(日本ヘラルド映画配給)によって、いまだに円盤化されてないようだが、さっさとDVD化、BD化するべきである。ヘラルドは倒産してしまって角川に吸収されていたので、なんとか角川から発売してほしいものだ。本作は決して孤独でないことを強調していた。それは師匠と弟子がとにかく同じ画面に映るからだ。二人が映らなかったとしても、師匠はうどん屋の店主や女将と一緒に写る。弟子のほうは恋心を持った彼女と一緒に画面を彩るのだ。

本作は淡々と緑なき大地を捉えつつ、黄色い河を背景にダイナミックな捉え方をされている。それと中国の民謡を歌い始める人々のシーンは圧倒的に印象に残る。この土地柄、この国からでしか表せない場面だった。生涯にー度、闇の幕を引き開けて、自ら生きている世界を見てみたいと願いつつ旅を続ける老人と弟子、彼らが三弦琴の糸を千本弾ききるまでを描く単純な作品だが、そこには様々な思いが込められていて、深い作風に仕上がっている。印象的な場面と言うのはありとあらゆるところで見かけたが、黒澤明のアクションとは違って、超ロングショットで捉える分、武闘を始める村人たちが米粒のように見えるが、全体像を撮ったダイナミックさがある。クローズアップされる戦いはほとんど映し出されていない。しかし、静かな映画で撮りたかったのか、丘の上で琴を弾いて朗々とー曲歌うだけで荒野に広がる村人たちの争いが弱まり、カットバックされるのはすごかった。

物語自体が神話的で寓話的な分、老人が神様に思われているのはリアリズムにかけるが、そもそもそういった作品がこの映画は作っていないだろう。信じ難いエピソードが巻き起こるし、我々見る側の感受性で楽しむ作品だと思う。現実の出来事のように描いているファンタジー映画と言うべきか…。それにこの作品はメタファーと言うよりかは、やはり少なくても中国共産党を静かに批判していると思われる。そもそも文化大革命の時代を経てきたスタッフたちが、このように盲目な主人公たち、自分たちの目で世界を見てみたいと言う設定と言うのは、盲目=中国共産党、目が見えて自分たちで世界を見てみたいというのが=中華人民の人たちであるとしたら、われわれは自分たちで物事を決めたいし、民主主義をやりたい、自分たちで世界を見てみたいと言う思いを取れるし、そういったものを断固拒否する共産党は盲目であると言う意味合いに私には取れる。

そもそも文化大革命の時代というのは、人民はただ想像するだけで、外界がどうなっているかなど全く以て知らされていない。自分たちで世界を見たいと言う思いは確実にあっただろう。そういった強い思いがリアリズムの自然さとは別の張り詰めたトーンのリズムで描いているし、セリフを事細かに解説していけば、そういったものが作品全体から明実に表れている。だから騙されたと思った師匠が、先代の墓を叩き壊して、共産主義の理想は全て嘘だったと教えられたことに対しての怒りが現れたんだと思う(この場合先代が共産党と言う意味合いになる)。それから琴の中に入っていた白紙も何かしらの意味を持っているはずだ。寓話的であり、白紙が共産党へとつながる何かの批判のメッセージかもしれない。結局共産党がやってきたことというのは全て無意味=真っ白な紙といいだけのようだ。意味がないから師匠の目は治らないし、絶望してきた人々が多くいる。そして絶望してきた人々は力を失う(この場合老人は騙されたと思った時点で、村の人々から神様と言われていたカリスマ性が失われている)。

それからもう一つ、そびえ立つ山々や、圧倒的な滝などのシーンを見せられると、このような荒々しい大自然の脅威に立ち向かうほど共産党を倒すのが難しいと言うのを表しているような感覚も見て取れる。我々(資本主義間の人々も)も生活のために戦わなくてはならない、どんなに大変な壁があったとしてもそれを乗り越えていく力を蓄えなければならない。それがハンデを持った人々であろうともと言うような監督の濃密な感情が感じ取れた。だからクライマックスで師匠が死んだ後に青年はー人が旅立つ。しかも自分の足で大地を踏みしめながらいく。これからが本当の戦いだと言わんばかりに…。もちろん原作を読んだことがない為わからないが、もし原作もこのような感じだとしたら、原作者自体もこのような考え方を持っているんだろうなと思う。そもそも、中国では文革初期の数年間、都市の高校生や中学生が大勢農村へ送り込まれた。後に彼らが青年期に達すると、このいわゆる下放体験を小説に書き始めた一群の作家たちが現れる。その一人にこの作品(原作の名前は"命若琴弦")の著者である史鉄生がいる。

実際に農村に下放した学生の中には、自ら志願して出向いたものもあれば、親の階層を問われて事実上都市から農村に追放されたものもいたそうだ。いずれにせよ、彼らが最初に描くとすれば彼らにとってかけがえのない青春時代の下放体験しかなく、したがって多くは彼ら自身の青春時代の喪失を訴える告発、それも訴えるあてのない苦渋の独白であったとされている。それは、彼らより年上の作家によるいわゆる"傷痕文学"とは異質なものであるらしい。本作の監督も著者と同世代である。長々とレビューしたが、本作は紛れもなく傑作である。炎、月明かり、黄土高原、滝、砂漠と大自然の中での放浪旅を描いた作風では素晴らしい物があった。ラストの蝶々の凧が空に舞い上がる時…それは……。あぁ、傑作。
Jeffrey

Jeffrey