Jeffrey

炎上のJeffreyのレビュー・感想・評価

炎上(1958年製作の映画)
5.0
「炎上」

〜最初に一言、まさにこの映画は仏の裁きを描いた傑作である。色の強調を抑え、モノクロームで成功した市川崑のフィルモグラフィーの中で最も美的構図が発揮された一本である。三島、雷蔵、宮川、市川どれを取っても最高である、死ぬ迄に観たい映画とはこの事だ〜

冒頭、昭和十九年春。聳え立つ驟閣寺が燃えた。父なく、友なく、女なく、母の裏切り行為、青年溝口。若い魂が反逆し続ける訳、吃音症、怒りと反抗、裏切の師、米兵と娼婦、火花、列車と警察。今、金色の国宝に放火する迄の過程を映す…本作は三島由紀夫の原作"金閣寺"を巨匠市川崑が昭和三十三年に大映で監督した彼のフィルモグラフィーの中でも最高傑作と言える一本で、私個人彼の作品の中でー番最初に鑑賞した映画であり最も好きな彼の映画だ。そして時代劇俳優の市川雷蔵を初めて知った作品でもあり、後に彼の大ファンになり数多くの主演作品を総なめにしてみたターニングポイント的な映画である(個人的に)。この度、YouTubeにて市川崑特集をするべく久々に角川書店から発売された市川崑BDBOXを再鑑賞したが、どれも大傑作。本当にとんでもない監督である。しかしベネチア国際映画祭に一九五九年に出品されたが受賞はせず、金獅子賞を受賞したのは「ロベレ将軍」と「戦争・はだかの兵隊」の二作品だった。非常に納得がいかない。

当時、「処刑の部屋」に出演していた川口浩を主演に迎えるつもりだった市川崑は、理由もわからず永田社長にダメだと言われ、当時の川口の父親にも理由を聞いたがさっぱりわからないと言い、川口お前からも社長に説得させろと監督は促したそうだが、社長がダメだったらダメでしょうとのんびりしていたそうだ。結局川口浩ではなく、溝口健二の「 新・平家物語」に出演していた市川雷蔵に決まったそうだ。川口のファンである私にとっては川口の金閣寺も見てみたいと言う思いがあるが、本作は市川雷蔵が主演になると言う運命だったのだろう。結局永田社長が反対した理由と言うのは明らかにされているのだろうか?そして市川崑は川口ではなく市川雷蔵を起用したことに結果としては満足していたのだろうか…。そういえば本作でびっこを引く男を演じていた仲代達也は大映映画初出演だったような気がする。

本作は金閣寺ではなく驟閣寺と改名されてる。その理由は当時の金閣寺の住職から映画化をしないでくれと言う断りが入り、京都の仏教界からもそういったお達しが来たそうで、今後は大映に京都で撮影させないと言う伝達が届き、永田社長がもうやめろと市川崑らに言ったそうだが、すでに準備に入っていた彼らは、金閣寺と言うタイトルを止めて炎上にすると言うことで何とか承諾を得たそうだ。なので劇中の中でも金閣寺ではなく先程のような名前に変更されている。三島自体映画好きなので、色々と当時市川夫妻と会食しながら論戦をしていたそうだ。そしてこのモノクロで撮影したシネスコ映画の中でも上位に来るほどの映像美が堪能できる作品が作られていく。

とりあえず本作の映像美はもちろんのこと、市川雷蔵演じる 吃音症の青年の芝居が素晴らしくて堪らない。宮川一夫の撮影もこの映画を水準に満たした仕事をしている。 そして黛 敏郎の音楽時たら最強過ぎる人材で作られている。吃音症と言えばドモイ映画のミュージカルとして風変わりなアートシアターギルドATGで「日本人のへそ」と言う映画があるが、あれもなかなかインパクトがある映画だった。そこまで面白いと思わなかったか。三島由紀夫の文学の中でも人気のあるこの作品をたったの二千万円で制作してしまう監督の怪物さんにも驚く。ロケ地の大覚寺は嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である事は周知の通りで、後宇多法皇がここで院政を行ったりと日本の政治史に深い関わりをもつ寺院。

それをモノクロームの美しい映像表現で描き切った「炎上」は日本映画史上に残る傑作だ。この作品は私にとって非常に特別な映画で日本映画を深く観ようとする姿勢を与えてくれたいわばモニュメントのようなものであり、この作品を語らせたら何時間でも話してしまうほど大好きな映画であり思い出深い。まず、三島由紀夫の文体と言うのは名文で有名であり、彼の作品の映画化と言うのを頼まれる監督と言うのは、大抵簡単にやりますとは言わないだろう。この作品の市川崑もそうだったそうだ。すでに彼は三島の本作を読んでいて、僕には手がには負えないと依頼してきた大映の藤井プロデューサーに言ったそうだ。しかし、藤井の熱意に根負けして監督したとの事。

今思えば市川雷蔵のように化粧しながら美的に演じていた役者が素顔で挑戦した、しかも吃音症と言う役どころを見事に演じきったのは凄いと感じる。相当反対もされていたそうだ。やはりイメージと言うのがつきまとうから役者には当然だろう。この映画をもってしてもキネマ旬報ではベスト四位で止まっている。いかに一位を取るのが難しかった時代だったことが非常にわかる。今の世界三大映画祭もそうだろう。当時ニューヨーク映画祭で上映され高く評価され、ベネチア映画祭では主演の市川雷蔵が男優賞受賞している。

さて、物語は昭和十九年春。青島弟として京都の荘園地に住み込んだ溝口吾市にとって、境内に建つ驟閣寺はこの世で最も美しいものであり、限りない憧景の対象であった。戦後、観光地とかした寺の経済は豊かになり、住職の生活も一変する。彼の違和感はいつか絶望へと変わり、やがて破局を迎える…。本作は冒頭に、不気味な念仏と共に驟閣寺の図表が現れる。そして左斜めに控えめにタイトルロゴが出現する。カットが変わり、とある坊主の青年が事情聴取を小さな警察署の部屋で聞かされているファースト・ショットで始まる(部屋には刑事が三人と溝口少年が一人)。警察が溝口吾市二十一歳と述、小さな寺の息子で父親は七年前に死亡、胸の所に切り傷の跡があると淡々と説明をする。すると溝口の後ろに立っている刑事が彼の衣服をはだけさせ傷の確認をする。カメラはその傷をズームする。放火の話をされる。溝口はゆっくりとシャツのボタンを閉め直す。刑事は彼の放火犯に対しての事柄を追求する。カメラは溝口が何か言いたそうにするが、口を開かず彼の顔をズームする。茫然とした様子の溝口は放火に至るまでの経緯を回想する。

カットは変わり、彼が学ラン姿で驟閣寺の門を抜ける場面へ変わる。続いて、溝口は寺の中に入り、手にはカバンを持っている。そこに男性が井戸から水を汲んでいるショットが映る。溝口はその男性に頭を下げ、手に持っていた父親の遺言書を渡す。父の修行時代の友人である田山道詮老師が住職を務める驟閣寺に修行する。そこへ一人の住職がやってくる。彼は溝口さんの息子さんか、どうぞお上がりと彼を出迎える。カメラは床を雑巾がけしていている坊主二人を一瞬捉える。カットが変わり、畳の部屋へ。そこへ若い坊主が食事を持ってくる。それをいただこうとする田山道詮老師。そこへ先程の僧侶が溝口少年を連れてくる。田山道詮老師は父親の遺言書を読み、お父さんは駄目だったのか、ちっとも知らんかったと驚く表情で溝口少年に話す。ここで会話が始まる。そして僧侶の副司が溝口が来たことによって、後継が自分の息子でなく溝口になると考え田山道詮老師に何とか説明をする。

続いて、部屋から廊下へと出てきた溝口は遠くに見える驟閣寺を眺める。するとそこに一人の鶴川と言う男性が溝口に声をかける。彼は後に溝口の徒弟生活の友人になる。カットは変わり、 鶴川が親切心で米の入った藁袋を持とうとしたら米が藁袋から地面に落ちてしまい、溝口が初めて声を出して米がもったいないじゃないか馬鹿野郎と言う。だがその声はドモイ(吃音症)で、うまく話せなかったことを周りの僧侶たちが耳にし、なんやドモイか…と彼を蔑んだ目で見る。そして彼に直接ドモイかと言う。カメラはそれを耳にした溝口の驚いた表情をクローズアップする(彼の額には汗がついている)。ここで画面はうっすらと映像が変わり、彼の過去の学生時代の描写へと変わる。ドモリを馬鹿にされる溝口、周りは海兵に入れと誘うが、家が寺なので僕は坊主になると言う。溝口はそのリーダー格の男が服を脱いで短剣を置いて出て行くと手にしたカッターでその短剣のカバーを傷つける。

続いて、現実へ。溝口はお経だけはドモリませんとに副司伝える。そしてお経を唱え食事をする場面が変わる。カメラはそれを固定ショットで食事をしている数人の坊主を捉える。続いて、お寺の外で掃き掃除している溝口を田山道詮老師が呼び、彼を励ます。カットは変わり、家をロープで引っ張って壊す描写が挟み込まれる。寺には溝口の母あきが田山道詮老師らと会話をし、息子がお世話になっていますと頭を下げる。そこへ溝口と 鶴川がただいま帰りましたと戻ってくる。溝口は帰ってきても母親と会話せず去っていってしまう。どうやら溝口の父親の命日。すると警戒警報が鳴り響く。カットが変わり、溝口少年の部屋へ変わる。そこに鶴川がやってきて声をかける。母親に一言も口をきかなかった事は照れ隠しで本当は嬉しかったんだろうと色々と話をする。溝口は僕のドモリをみんな笑うけど鶴川さんは笑わへんなぁと言う。彼は僕はそういうの全く気にしないと言う。

続いて、驟閣寺へ。空襲サイレンが響く。溝口は寺の床拭き掃除をしていると溝口の母親が空襲だぞと息子を探して寺から外へと引っ張り出す。そして防空壕のようなところに二人はやってきて寺を売ったことを聞かされる。ここで溝口と父親の思い出が回想として写し出される。 父は日本海を望む岬に立ち、驟閣ほど美しいものはこの世にない、その美しさを見れば世の中の汚いもの醜いものは忘れられると息子に教える。母親はここの住職になるんだぞと言う。溝口は父親が憎いから寺を売ったんだろうと責める。そして二度とここへ来るなと言う。彼は母親から離れ、父親の幻想を寺の目の前で見ている。溝口は寺の床にしゃがみ込み泣き始める。カットは変わり、バスからアメリカ兵士の観光客らしき人物たちが寺へとやってくる。カットは変わり、敗戦から二年後、寺の副司も拝観料の金勘定に勤しんでいる姿が映し出される。続いて、箒とちりとりを持った溝口がとある日本人女性と米兵が争っている場面を見かける。その日本人女性(娼婦)が寺へ上がろうとしたのを発見した溝口は慌ててその女性を寺から放りだす。すると女性は転倒してしまう。兵士が近寄り、溝口に何故か有難うと言い、タバコのカートンを二箱手渡す。そして日本人女性とともにその場から去っていく。溝口はタバコの箱を捨てて頭を抱えながらしゃがむ。

カットは変わり、 田山道詮老師の畳部屋へ溝口がやってくる。彼はお話ししたいことがありますと言う。 田山道詮老師はタバコを頂いたんだろうと手に持ってもらってしまう。続いて、寺の最上階から街を眺める鶴川と溝口。二人は会話をする。それは米兵と一緒にいた女性がドモイの少年に突き飛ばされ流産してしまったことが問題になっていることを話す。溝口はそれは自分や、と鶴川に言うと彼は半信半疑に驚く。すると寺から周りを見渡すと美しい女性の姿を発見する。カットは変わり、溝口の部屋に彼の母親がいて彼が自分の部屋に戻ってくる。 母が厭わしくてならなかった。やがて、女性を突き飛ばした罪の発覚で田山道詮老師が少しばかり失望するのに溝口はショックを受ける。老師が金で片をつけた事にも衝撃が走ったとされる。更に仲良くしてもらっていた友人の鶴川が母親の危篤で東京へ帰ってしまった。

続いて、小谷大学も休みがちになった溝口だが、同大学の学生で内反足の障害を持つ孤独な戸刈と友達になろうと近づき、ドモれ、ドモれと叱咤されたが、二人は学校のグラウンドのベンチに座り会話をする。溝口は何でもかんでも自分のことを知っているその男に興味を持って聞くが、男が足が不自由な俺は周りをよく観察していると言う。そして寺をあちこち転々と見ている溝口に寺の息子がなぜ他の寺を見回ると聞くと溝口は驟閣より美しい寺があるか探していると答える。そこで一人の女性が歩いてくるのを戸刈が発見し溝口とともにアプローチしに行く。 戸刈は障害を逆手にとって高慢な令嬢の気を引く大胆な振舞いをする。カットが変わり、溝口が学校に行かないことを心配した母親がなぜ行かないんだと彼に話をする。

続いて溝口が一人で繁華街をさまよう場面へと変わる。そこには田山道詮老師がいて、夜の新京極の繁華街で芸妓と歩いているのを見かけた彼はとっさにバレないように路地裏に入り込み野良犬に手を舐められる。だが結局見つかってしまう。彼は尾行していたかと勘違いされてしまう。カットが変わり、老師が寺へと帰宅する場面へ。 鶴川が事故死したことも知った溝口は悲しむ。カットが変わり、戸刈の下宿を訪ねる溝口。彼は溝口に尺八を一つ差し上げる。吹き方を見せる戸刈 。それをじっと眺める溝口。戸刈は禅寺の息子で、祇園の若い芸妓を囲っている老師の真実の顔を話す。彼は老師の性根を試すため老師を困らす事柄を敢えてやってみろと溝口をけしかけた。カットは変わり夜へ。そして明朝、郵便受けの箱から新聞を取り出す溝口、ここで彼はとある事をする(ネタバレになるため言及を避ける)。その新聞を老師の所に届ける。

続いて、溝口は小刀とカルチモンを買う。戸刈の部屋に行き溝口はお金を貸して欲しいと言う。その担保として辞書と尺八を用意するが彼はそれでは意味がないと言う。しかし彼は借用書を書いて溝口に借金をさせた。溝口はその借金した金で故郷の舞鶴に向かい岬から裏日本海の荒れる海を見つめる。彼は溝口に尺八が上達したかと聞き、吹いてみろと言う。溝口は立派に吹くことをに成功する。しかし彼は尺八を吹く彼が吃る事を期待していたことを伝える。カットが変わり、溝口が一人岬に立つ描写へ。手には小刀とカルチモがある。カメラはそれをロングショットでとらえる。続いて、実家の寺の門をじっと眺めながら、溝口は父の柩を海岸で火葬した日の花に囲まれた父の死顔を思い出す。


続いて、一人で宿屋にずっといる溝口を不審がった宿の内儀の通報により、溝口は警官に馬鹿な事は考えちゃならないよーと言われ、溝口は学生証を見せる。警官は君、金を持っているか?と言うと溝口は財布からお札を何枚か出す。溝口は警官に伴われて驟閣寺に戻って来た。夜、溝口の母が不幸物恩知らずと彼を叩き泣きながら思いを伝える。自分ももう寺に居られず、お前のことも野垂れ死にしようがどうなろうと知らない、お前なんか産むんじゃなかったと強い表現で怒りをあらわにする。続いて、 戸刈が溝口に借金している金額を返してもらいたいと老師の所へを尋ねる。溝口は老師に借用書の母音はお前のものかと尋ねて溝口がはいと答えたため机の引き出しから借金分のお札を戸刈に渡す。老師は今後このようなことが起きると寺に居させるわけにはいかないと忠告する。カットが変わり、溝口が戸刈の所へとやってくる。やがて、溝口の周囲の環境により彼は徐々に不安定な状況になり、いよいよ皆が寝静まった夜中に溝口は驟閣寺に放火するのであった…と簡単に説明するとこんな感じで、実際の国宝放火事件を題材にした三島由紀夫の読売文学賞受賞小説を市川崑が和田の脚本で映画化した現代劇初主演で話題を呼んだ市川雷蔵の演技とともに絶賛された映画である。

いゃ〜、傑作、大傑作だ。一人の青年が美しい寺との対決をして最終的に滅んでゆく様を純粋なまでに描き追求した映画で、彼を取り巻く環境は最低な無残さを極めている。そこに感情移入を多少なりともできるし、愛情を求めてさすらう青年の姿を淡々とした演技で異色文芸作として意欲を燃やす監督とスタッフ、キャスト(役者)をはじめに、宮川一夫の撮影能力、照明の岡本健一の技師としての能力、美術の西岡善信の圧倒的クオリティーのセットが最高である。あのほぼクライマックスのお寺が大炎上する夜の風景ショットは幻想的である。寺から必死に裸足で逃げる溝口を捉える急な斜面の山を捉えたロングショットのシークエンスも凄く美しい。そして夜空に散る無数火花を眺める溝口の表情と共にフレーム作りが美しく画期的だ。そしてラストのディーゼル車の〇〇から〇〇する描写ののどかな田舎風景で終わるシーンは余韻が残る。あと溝口が父親との回想の場面に入ると二人が海の見える崖を下るロングショットのシークエンスがあるのだが、圧倒的に美しいフレーム作りで驚く。それとこの映画唯一の繁華街が写し出される場面で母親と仲違いした溝口が孤独に街をさまよう場面での街の風景や人物たちが行き交うショットが画期的に美しくかっこいい。それに溝口が町で田山道詮老師を見かけてとっさに路地裏に姿を隠す場面で野良犬が彼の手を舐めるシーンも印象的だ。

もちろん本物の寺を燃やす事などできないのだから、技術担当の西岡と市川監督が研究を重ねて国宝建築物にふさわしい建物を新しく創造することにしてて室町時代の建築様式の優美を基調に単調な直線と、緩やかな構成で作り、その上に近代美を追加した二層の寺を見事に作り上げているところは拍手喝采だろう。ミニチュアといっても高さ五メートル、間口三メートルもあるらしく、徹底されている。そしてそこに現代劇の役を演じたことがなかった時代劇役者の市川雷蔵が見事なまでに特異な役柄で葛藤する青年を演じていた。そうそう、この作品はエキセントリックな人々が結構出てくる。自尊心だけの女、びっこ、どもり…。本作はモノクロだが、正直国宝の寺が主役の一つになっている分、色彩を使えばさらに美しく映像化されると言う一般的な思いもあるが、あえて色彩を避けた理由としては色があると主題がぼやけると思ったからとインタビューに答えていた。それと裏日本の風土的なものを撮りたかったとも言っていた。本作の舞台となったロケ地は風光明媚で美しく、舞鶴市を起点に宮津まで足を運んだとのことだ。

昨今、歴史ある街並みに近代的なビルなどが立ち並び、その美しさが阻害されている現状に苦しくを思っている人々が多くいるのは周知の通りであろう。この「炎上」が作られた時代からはすでに観光産業は発展していて様々な意見対立もあった。今日的なことを考えると、城の中にエレベーターを作ったり、エアコン完備したりなどと当時の原型がほぼ崩されていくいく事は非常に辛く思うので、この主人公の溝口もそういった現場に耐えられなく、なおさら信頼を裏切られたために国宝を焼くと言う行為をしてしまった彼の気持ちもわからなくもない。しかしそれは犯罪であり大変損害を被る行為であることも事実で、決して許される事では無い。にしても、溝口がこの世で最も不潔な母親が寺に近づくのを耐えられなかった彼が、母親に対して愛情よりも憎しみを抱く青年の悲劇を描くのがこの「炎上」だったら新藤兼人がアートシアターギルドで撮った「絞殺」は不潔な父親から愛しい母を奪還するべく息子が父親を憎しみ悲劇が起こる映画と真逆な立ち位置であるなと感じた。

それにしてもなんて事ない学校のグラウンドのよくある網の柵と言うのだろうか、それが一本歪みながら設置されているロングショットは凄いSFチックである。また父親の葬儀の参列時に予想外に賑やかな葬列になってしまい、溝口がさらに母親に対して憎しみを深め致命的な母と子の溝ができてゆく何処から国宝に放火すると言う大罪に追いやる自分の姿を市川崑がつくづく圧倒的な美しさで描いているのはやはりいつ見ても凄いとしか言いようがない。断崖のシークエンスのショットだって宮川一夫だからこそできたと言える完璧さがある。


最後に余談だが、この作品に出演が決まった市川雷蔵は坊主にするべく、兼ねてから市川のファンだった横綱三人が断髪式をやるとして夏場所を打ち上げて名古屋場所への稽古に励んでいる最中にもかかわらず古式に則って断髪式をやったそうだ。断髪式後の横綱たちはもともと映画が大好きでよく見ていたそうだ。時代劇が特に好きで雷蔵の若侍がたまらなく好きだったと述べていた。それと市川雷蔵が学生姿になってカバンを持っている場面を見た野次馬たちが可愛いと歓声を上げたと言うこぼれ話もある。それと監督は撮影中でも休憩中でもー日中タバコを口にくわえていて六〇本吸っていたそうだ。
Jeffrey

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