ケンヤム

ソナチネのケンヤムのレビュー・感想・評価

ソナチネ(1993年製作の映画)
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この映画を一言で言うとすれば、
「生きる感覚をつかむために、自殺するしか無くなった男の話」
であると言えると思う。

「あまり死ぬのを怖がってるとな、死にたくなっちゃうんだよ」
というセリフに象徴されるように、村川というヤクザの男は、ヤクザという仕事の性質上、常に死と隣り合わせの緊張感の張り詰めた日々を送ってきたのだろう。
その緊張から逃れたいがために、自ら死に突き進むという行為は自然なことであるように思う。
人間は、死に対面し続けながら、正気を保っていられるような強い存在ではない。

この映画の一番の特徴を挙げるとすれば、中盤の死の緊張が最大限に高まったところに唐突に差し込まれる遊びのパートであると思う。
この遊びのパートでは、五種類の遊びがなされるが、その遊び全てがこの映画の内容を暗示している。
ロシアンルーレットでは、彼らの死への無感覚さを表現している。
トントン相撲では、権力者に踊らされ戦わされる村川たちを表す。
落とし穴では、ハメられている村川たちを暗示する。
そして、ロケット花火で果てしない殺し合いと、この映画自体のラストシーンを暗示し、フリスビーという一人ではできない遊びで、村川が孤独になっていく様を表現する。
このように、遊びによって、映画の登場人物の人生を暗示することで、遊びの中に悲しさが内包されるのだと思う。
また、遊びの中で村川が見せる優しい笑顔やおちゃめな姿は、村川がヤクザという道を選んでなければ「あったかもしれない姿」でもある。

そして、遊びという平和な静寂は1人の不気味な殺し屋によって打ち破られる。
村川たちは、殺し合いの中に戻らざるを得なくなった。
そこで、明らかになるのは村川が北島組の都合によって戦いを押し付けられているという事実だ。
これは、現実世界のメタファーにもなっているように思う。
いつも、戦うのは下っ端の若者であり、権力者は影響の受けないところで悠々とそれを見ている。
いつも地方が戦いの舞台になるというのも現実と同じである。
沖縄は特にそうだ。
沖縄には、中央の都合で戦いを押し付けられ続けてきたという歴史がある。
太平洋戦争における沖縄戦に代表されるように、中央からきた争いが沖縄で激化するという構図は、現代にも引き継がれている。
現代では、中央の都合で米軍の基地を押し付けられ、座りこみデモと機動隊が戦わされている。
この映画の構図そのものではないかと思う。

無意味な殺し合いによって村川は全ての仲間を失った。
村川は、生きる意味を失い、後腐れなくどのように死ぬかということだけを考えた。
1人の若者をカタギに戻して死ぬということだけが、生きる意味になったのだと思う。
村川は若者をカタギに戻して死ぬことだけを考えた。
村川は死を救いとして求めていた。
女を待たせてはいるが、村川は自身が戻ったら女が不幸になることを自覚していたし、だからこそ死を選んだのだと思う。
全員皆殺しにして死ぬことが、愛する人を幸せにするという不幸な状況に追い込まれてしまったのだ。
私には、車の中でこめかみに銃弾を撃ち込む村川が究極に献身的な男に見えた。
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