人類ほかほか計画

ミイラ再生の人類ほかほか計画のレビュー・感想・評価

ミイラ再生(1932年製作の映画)
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これは設定をエジプトのミイラにしたバージョンって感じでほとんど『魔人ドラキュラ』の要素でできてる映画ではある。
『魔人ドラキュラ』の撮影監督で部分的に演出もやったとかやらなかったとか言われてるカールフロイントが今回は監督で、エドワードヴァンスローンがヴァンヘルシング教授とほとんど同じ役割のキャラで出演、オープニングも同じく「白鳥の湖」で、姉妹編であることを強調する。
基本的には『魔人ドラキュラ』と同じ目力催眠恐怖の映画。
『魔人ドラキュラ』と違うところでこの映画ならではの恐怖を表現し得ているところは大きく四つあると思う。

一つ目は完全に新しく足されている要素としての、転生のテーマ。輪廻転生。『ハムナプトラ』では確か2でやってたか。後にズバリ『リーインカーネーション』という映画や、日本にも『輪廻』があったりするが。この『ミイラ再生』に関してはフリッツラングの『死滅の谷』からのインスパイアかなって感じがある。数あるドラキュラものの中でも特に『魔人ドラキュラ』の場合、「死」やそれに類する恐怖とは別に、というか別角度の恐怖として、ドラキュラという存在/介入による「愛の否定」みたいなものがあると思うのだけど(つまり、キリスト教で結婚の際に教会で神に誓う永遠の愛というものを否定してくる恐怖)、『ミイラ再生』の場合それが逆になってて、前世の因縁によって悲劇的な愛が運命づけられていて、自分の意思を超えた愛という恐るべき力に抵抗できずに破滅してしまうという恐怖、つまり「愛という恐怖」みたいな話になっている。
愛の否定という恐怖と、愛の運命に嵌ってしまう恐怖、全然反対の恐怖を同じ「怖い眼の力に魅入られる」というイメージで描いているのが興味深い。
両方、無意識というか、意識を超えたところにある何かに対する恐怖。その何かを掘り起こされたり操られたりしまうという恐怖。
でその際に『魔人ドラキュラ』だと異国(東欧)から来たエキゾチックで謎めいた色男がその恐怖を象徴するキャラクターだったのに対し『ミイラ再生』では薄気味悪い怪物顔(言ってしまえばフランケン顔)のシワシワの異国人(南の地アフリカ大陸)、という違いが出てるのがおもろい。

二つ目は、対象者を目の前にした目力催眠に加えて行われる、ドラキュラはやってなかった魔術、古代の儀式による遠隔呪殺。全然別の場所から一人何やら呪文を呟くボリスカーロフと、心臓発作か何かで死んじゃう対象者を、クロスカッティングで見せる怖い怖い演出。逃れようのない死。

三つ目は実に見事なファーストシーンでやってるその直球ホラー演出の出来そのもの。トートの書の文言を声に出して読んでしまったがためにイムホテップのミイラが蘇ってしまうのだけど、ミイラの目がゆっくりと開く顔のクロースアップのカットと、画面外から入ってくるミイラの手だけを見せるカット、そして既に扉を出て歩き去る最中のミイラの足から引きずられているのであろう長い包帯の端が部屋から出て行くのが見えるカット、っていう3カット以外でミイラを見せない。この後のシーンになるともう復活から10年後普通の人間の姿(シワシワの不気味な人だけど)のカーロフとして登場するので、映画史に包帯ぐるぐるミイラが歩き回るイメージが登場したのはこの続編の『ミイラの復活』からだ、というふうに言われているのだけど、そんなことはなくてこれは観客の想像力に託すかたちで包帯ぐるぐるミイラが歩く姿のイメージを「見せて」いる演出。『ゴジラ』とかでまだ謎に包まれた怪物の登場を焦らすことで「そのビジュアルを見たい」という観客の欲望を刺激し興味を惹きつけるというような種類の「見せない演出」とはちょっと違う。なぜなら既に、動かない状態の包帯ぐるぐるミイラを観客は見ているわけだし、唯一のビジュアル的差異である目が開くというのも見せているので、動いてないか動いてるかという違いしかないわけで。なのでこれは基本的に見せるのを焦らす意味は発生してなくて。単に「全部はっきり見せないほうが怖い」という判断で見せてないという演出。結局観客は包帯ぐるぐるミイラが歩くのを頭の中で見ている。これは『魔人ドラキュラ』でもドラキュラが動物に変身するなどの超常的な映像を特撮を使って見せるということをあえてやらなかった(『吸血鬼ノスフェラトゥ』はコマ撮り特撮とかでけっこうやってるし、確かスペイン語版『魔人ドラキュラ』のほうでは煙が出てドロンみたいなことをやってた)演出的判断をより推し進めたもので、その後のホラー映画の演出法にもかなり先駆けたものと言える。
あとこのファーストシーンで、被害者が襲われて殺されるのではなくて、ミイラが動き出して歩き去るのを見てしまったがために気が狂って笑い死んだ、という話にしてるのが面白いところで。襲われて殺されてその犯人をはっきり見せないということだとそれは単に探偵小説じみた興味になっちゃうけど、見てしまっただけで狂い死んだという話にしていることで、動くミイラという(容易に想像できる)ものがいかに心理的に恐ろしい事態なのかを印象づけるのだ。あるいは「見たら狂うほどの怖いものなのでとても全身ショットは見せられないよ」っていう感じの怖さの醸し出しを意識して狙ってるのかもしれないけど、だとしたら『妖女ゴーゴン』とか、あと『リング』の呪いのビデオや貞子の姿とかの怖さに繋がっていく種類の演出だと言える。であれば『妖女ゴーゴン』『リング』が「絶対見てはいけないものを観客に見せる」つまり見せた時点で作り事であることが強調される(だって実際には見ても観客は死なないから)種類のものをあえて見せてしまうことでしかし一過性の恐怖のインパクトのほうにこそ賭けるというある種の反則をやっているのに対して、このミイラは最後までそれそのものは見せないので、映画を見終わったあともじわじわ怖いというのが残る。……と思わせておいて、以下に「四つ目」の段で書くように、ミイラが動く姿を見せることに匹敵するような超常的恐怖映像をこの映画は最後の最後で結局見せるので、やっぱり『ゴーゴン』『リング』的源泉がある。

四つ目は、ラストでカーロフが、イシス神の石像から放たれた超常パワーによって再びミイラ化するシーン。これはファーストシーンの見せない演出とは対照的な見せる恐怖シーン。ゴア的なものの先祖と言える。顔のアップのコマ撮り(というか連続オーバーラップ的な)特撮で表現されてて最後に朽ち果てた骸骨まで映る。まんま『レイダース失われたアーク』とかの元祖だし、『インディジョーンズ最後の聖戦』がオマージュしてたジョージパルの『タイムマシン』とハマーの『吸血鬼ドラキュラ』ラストシーンの更なる元ネタ、最初の最初のやつと言える。「ホラーの名門」ことハマープロの吸血鬼映画は『吸血鬼ドラキュラ』の後もお約束のようにラストの顔面朽ち果て特撮にこだわり続けて、最高到達点はたぶん『新ドラキュラ悪魔の儀式』のそれだと思うけど、そのいちばん最初がここにある。(この翌年の『透明人間』のラストで死ぬとき透明からドクロを経て人間に戻るという演出もこのミイラ化シーンのインスパイア的なやつだと思うけど東宝版『透明人間』なんかにもしっかり引き継がれるのでその元祖とも言える)

あと模型を使ったタイトルのシーンがオサレで好き。