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キートンのカメラマンのTnTのレビュー・感想・評価

キートンのカメラマン(1928年製作の映画)
3.3
 バスター・キートン初期作品の切れ味は薄味に。MGM入ってからの作品ということで、制作スタイルがガラリと変わり、つまり自分が作家として参加しずらい形になったよう。キートンは今作品に一応監督で参加しているが、クレジット表示なしということで、まぁなんとなく察せる・・・。カメラワーク、編集、ネタともに凡庸なものになってしまっている。また、どこか同時期の喜劇役者に対抗するかのような製作陣の姿勢が伺える。後半からラストにかけては少し巻き返すのが救い。ただその後のキートンのキャリアがどんどん失墜していくのを知った上で見ると、なかなかに辛い。キートンはその後、MGMに入ったことを晩年まで後悔したという。それでも、むしろ今までのキートン作品が一体なんであったかを知るのに、今作品はその比較対象として優れている。その点で今作品は、物証としての価値を持っている。

 まずはカメラワークについて。これはもう、今作品はひどすぎるな・・・。もちろん映画としては成り立つが、キートン作品では全くと言っていいほど余計なことする。とにかくミディアムサイズぐらいに寄って撮影された人物は、こちらに等身大の生の人間であることを如実に訴えかける。キートンのアップは、それまでのロボットのような無機質なキャラクターに人間味を与えるという失敗を犯す。また、せっかくのアクロバティックな描写の殆どが人物の寄りなので、状況とその行為と浮いた滑稽さが全く機能しない。二階建てバスの二階から一階に移動するのを、人物の寄りでしかも人物フォローで撮るなんて!絶対引き画だろ!と何度も思ってしまった。逆に今までの作品が、演者とカメラの絶妙な遠い距離感によって成り立っていたことを知る。また、今までのキートン作品の殆どが、固定ショットでバチっと決まっていたことにも気がつく。

 あとこのカメラワークからもわかるように、人間味や情を感じさせる描写が多々あり。つまり、対極にあったチャップリンのような人物像に仕立て上げられているのだ。悲哀はどちらもそなえているように思えるが、キートンはチャップリンのような愛嬌を出せる人物ではない。なんせ、その動じない”ストーンフェイス”が彼の売りだったはずだから。今作品ではただの不器用な男であり、今までの済ました気品はどこえやら。イメチェン的なことを画策していたのかもしれないし、別にそれでもいいが、ならその以前のキャラを凌駕しなければならないはずだ。

 また、チャップリンの「犬の生活」(1918)に対抗しようとしているのか、キートンには相棒の猿がつく。ただこの取ってつけたかのような猿と、適当なキャラ付けを考えた製作陣には不満が募る。前回見た「キートンの鍛冶屋」(1922)では、キートンと馬の非応答のナンセンスさが面白かった。今作品では、そのナンセンスさは失われ、応答可能な掛け合いができる猿へと変わってしまった。それに、そこまでキートンと猿が強い結びつきでないのは見てわかる。彼らはただ一緒にいるにすぎない。

 そんなこんなで、今作品はただのメロドラマである。当時、こうしたドラマ性のある映画がまさに主流になって行く中、キートンの今までの作風はもはや古びていた。似たような例で、映画界では他にもジョルジュ・メリエスが「おとぎ話は古い」という理由から衰退していく(1910年以降の話だが)。そんなこんなで映画界にも淘汰されて消えていくものがあったんだとしみじみ。ある意味、キートンの酒に荒れてキャリアを失墜していく悲劇性が、後に「サンセット大通り」(1950)なんかに出るチャンスを与えられるのは喜劇なのか悲劇なのか。
 
 またただのメロドラマではなく、今作品は「19世紀的な個人主義を20世紀的な機械との関連で賞揚する」作品である(中村秀之著「瓦礫の天使たち」より引用)。キートンによる、運動する身体性によって人間を等価値にする作風とは違う。もちろん、キートンの手がけた作品にも強引なロマンスオチがあるが、それは個人主義というより、終わりよければすべてよしという意向の方が強く、イデオロギー的に個人主義を叫ぶ作風でもなかった。時折、今作品のような悲劇性とヒロイズムは非常に鼻につくというか。カメラマンという地位を映画というカメラがまさに讃える自画自賛。または成功物語として今作品は非常にアメリカン・ドリーム的であるのだ。それまでのキートン作品が、人間の動きを無機的なモーションに還元することで、機械である映画と調和していたことが逆説的にわかる。そこには確立した形式美もあったはずだ。

 ラスト。これはわりとおお!とくるものがあった。キートンと溺れかかってた彼女とそれを奪った男。キートンは一見報われないかのように見えたが、カメラが引いていくと猿がなんと全てを撮影していたのだった。そして溺れて意識がなかった彼女はキートンこそが救ったことをそのフィルムによって知るという。この波打ち際で引いていくカメラワークには、フェリーニの「道」を感じてならなかった。再び「瓦礫の天使たち」を参考にして言えば、この波打ち際でうなだれるキートンは、フィルムという物質によって複製され、まさに以前のキートン作品のように無機的なものに還元されるのだ。そうなると「道」の、あの石も(おそらく星も)何も掴めないザンパノの丸まった背中は、彼自身を石に還元する試みだったのではないだろうか(前から思っていたことなのだが、今回類似した例を見つけて確信に変わった!)。

 その他。
野球の一人芝居は面白かった(キートンは野球好きらしい)。ただあれもカメラのモーションによってキートンのモーションがかき消されている。プールのシーン、妙に艶っぽかったり、ちょいスケベなネタみたいなの多くて、大衆映画だなぁと思った(更衣室のシーンは笑ったけど)。チャイナタウンのドンパチも、「アクションが見たいんだろ?」と言わんばかりに強引な設定。

 総じて、あまりよくない印象だった笑。例えるなら小津安二郎にその撮り方をやめろというほど愚かな作品だったのだ。なんか売れること第一の映画は、今でも昔でもどの時代もやっぱあるんだなと、そしてどれも受け入れがたい!今作品を鑑賞する上で、中村秀之著「瓦礫の天使たち」は非常に良い参考資料になりました。このレビューの半分ぐらい受け売りなところもあります・・・ありがとうございました。
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