青雨

シッピング・ニュースの青雨のレビュー・感想・評価

シッピング・ニュース(2001年製作の映画)
4.0
人生のなかで、宿命のように何度でも立ち現れる、呪いと祝福に関する物語。

あまりに鈍く慣れすぎたために、失われていく痛みにすら気づかない。呪いとはそうしたもののように思う。意識できているものなど、実はそれほどでもない。そして祝福もまた、呪いのアナグラムのようになっているため気づきにくくなっている。

人類最古の物語の1つであるギルガメシュ叙事詩(BC1300〜1200年頃)以来、ほとんどの物語は呪いと祝福に関する暗喩(メタファー)と言っても良く、この物語にも、そうした種類の性と暴力が織り込まれている。

ラッセ・ハルストレム監督は、『ギルバート・グレイプ』(1993年)、『サイダーハウス・ルール』(1999年)、そして『シッピング・ニュース』(2001年)の3作品によって、そうした祝福と呪いのアナグラム性をフィルモグラフィの頂点として築いており、人がそれぞれにもつルーツにこそ、呪いと祝福の両義性が潜んでいることを描いているように僕には感じられる。



宇宙へ旅立つ理由を尋ねられた際、宇宙飛行士や科学者たちが「地球のことを知るため」と答えるのはおそらく定番になっており、それは人についても同様のことが言えるかもしれない。他者を深く知ることによって、自身のこともまた深く知ることになる。たとえば結婚生活の醍醐味なども、そこにこそあるように思う。

本作でもまた、自らのルーツへの旅立ちのきっかけとなったのは、結婚生活(の挫折)と娘の存在だった。もちろん直接的な行動へと導いたのは叔母のアグニス(ジュディ・デンチ)ではあるものの、住み慣れた街であるニューヨークを離れ、祖先の地であるニューファンドランド島へと向かわせたのは内なる動機だった。

自身の呪いを、やがて娘にも継承してしまうのではないか。クオイル(ケビン・スペイシー)は、そのことをどこかで恐れたのではないか。そして彼は自身の呪いのルーツへと旅立つことになる。

またこうした機微は、『ギルバート・グレイプ』や『サイダーハウス・ルール』でも、同じテーマ性をもって物語られているように感じる。ギルバート(ジョニー・デップ)は、障害をもつ弟や肥大化した母や妹たちに呪いのようにつながれながらも、最終的にはそこにあった祝福を胸に旅立つことになり、ホーマー(トビー・マグワイア)の場合は逆に、呪いだったはずの孤児という境遇から旅立ったあとに、再び孤児院に戻り祝福を手にする。

やがて、自身のルーツとなるニューファンドランド島で、クオイルはウェイヴィ(ジュリアン・ムーア)と静かな恋心を結ぶなか、彼女が抱える呪いや叔母のアグニスの呪いなど、他者の抱える呪いを見つめた先で自身の呪いと向き合うことになる。

そしてラストでは、幻想的に象徴的に現れた先祖たちの奔流に流されながらも、先祖代々から伝わる家(つまりは血脈の象徴)が吹き飛ばされることによって、呪いとの和解の予兆が描かれる。

静かなサスペンス性、深淵を覗くような美しい寒村の島、象徴的に神話的に示される秘密と呪い、その先に示される祝福の予感。こうしたことは、港湾記事(シッピング・ニュース)のようなささやかな記事としてしか語り得ない。

そのように宿命からの逃れ得なさを知った大人のための、暗喩に満ちた素晴らしい作品のように思う。
青雨

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