レインウォッチャー

ガッジョ・ディーロのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

ガッジョ・ディーロ(1997年製作の映画)
4.0
E・クストリッツァ映画からファンタジーを極力引いた感じ、あるいはこうであってほしかった『福田村事件』。

亡父の想い出の音楽のルーツを探して、フランスからひとり旅する青年ステファン(R・デュリス)。雪道で行き倒れ寸前のところ、ある老人と出会い、一夜を飲み明かす。老人は彼をロマの集落に連れて行くのだが…

映画は、基本的に長閑で可愛らしく進んで行く。言葉がほぼ通じないながらも次第にコミュニティへ受け入れられていく様子、村の美女サビーナ(R・ハートナー)とのロマンスの気配、独特の習俗や文化(※1)の体験。
そして何より、ロマの人々が愛し、ステファンの目的でもある音楽と踊りが鳴り続け、彼らを結びつける。音楽はロマの人々にとって生活の糧(町への派遣演奏業とか)でもあり、守るべき遺産でもある。彼らの音楽を録音・採集することを思いつくステファン。

ところが、終盤において急転直下。それまで通奏低音的に見え隠れしていた哀しみと怒りが、ある(ある意味で案の定な)出来事によって噴出し、ステファンもわたしたちも現実の壁に打ちのめされることになる。

ここにおいて気づかされるのは、「搾取の構造」である。
それは、わかりやすい暴力やヘイトや…といった表面的な言動だけではなく、無意識のうちに潜む、時に悪意すらない搾取だ。だが、それはひとつのきっかけ、微細なヒビとなって存在し、時が経てば気づかぬうちに深く広い谷になるかもしれない。

ステファンを通したこの《悟り》は、ここまでなんだかんだ和やかな異郷訪問譚を楽しんでいた観客含め、冷や水をぶっかけるような効果がある。『ガッジョ・ディーロ』=愚かなよそ者、とはステファンのことであり、わたしたちのことでもあった。

しかし、この映画はステファンという一青年が通過儀礼を経て成長するてのひらサイズの物語にもなっていて、そこが美しい。
父の形見という、ある種の呪縛から解かれて独り立ちをすること。彼は最後に始まりの場所へと戻るが、もはや「同じ」ではいられないことは明らかだ。それは季節による風景の変化によって描写され、ステファンはロマの人々から正しく魂を継承したことをある行動によって示す。

ラストのサビーナの表情は一抹の希望であり、小さな兆し(サイン)。今年のPIXAR『マイ・エレメント』でもそうだったように、半径数メートルの2人から始めよう、そんな誠意が胸を打つ。

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※1:特に印象に残るのは、結婚式において嫁の実家を訪問した婿を義父がいったん追い返そうとし、婿が酒を渡して酌み交わすことによって和解する、という一連の儀式(?)。その他諸々も含めて、父権が強い文化ということが伝わる。あと、皿をすげー割る。