Jeffrey

大人は判ってくれないのJeffreyのレビュー・感想・評価

大人は判ってくれない(1959年製作の映画)
5.0
「大人は判ってくれない」

〜最初に一言、ここまで詩情に溢れて胸をつく美しさときらめきに満ちた傑作もないであろう。ヴィゴの傑作「新学期・操行ゼロ」へのオマージュに始まり、映画狂の監督による様々な仕掛けや隠し撮り、生々しいユーモア溢れる子供の日常が写し出され、所々にフィルム・ノワール的な要素も加えられた正真正銘の傑作である。模範的な人間から程遠い少年、嘘と隠し事、自分の愛を女に与える以上に、女からの愛を期待して女に愛を求めると言う、男のエゴイズム丸出しの男の冒険が今始まるのだ。正に監督トリュフォーと役者レオーが誕生したモニュメントだ〜

冒頭、パリの下町に住む13歳の少年。彼は悪ガキである。冷血の両親、家庭環境の歪み、学校での悪戯、厳粛な教師、親友とのタイプライターの盗み、エッフェル塔、回転台、留置所、護送車、涙、ネオン。今、浜辺まで走る…本作は1959年にフランソワ・トリュフォーが初の長編映画を監督した最高傑作で、脚本はマルセル・ムーシーが執筆、トリュフォー自身の幼少時代の自伝と言えるモノクロ映画で、この度BDに、久々に鑑賞したが素晴らしいの一言だ。カンヌ国際映画祭に出品して見事監督賞を受賞し、ヌーベルバーグの旗手となり、アントワーヌ・ドワネルの冒険シリーズが製作されていく。今は亡きジャンヌ・モローが逃げた子犬を追いかける女性役で出ている。更に彼女の後を追っていく男はジャン=クロード・ブリアリである。なんとも豪華な…。トリュフが長編一作目の撮影に入ったのは26歳の1958年11月10日(その深夜、彼の恩人であり師匠のアンドレ・バザンが肺結核で世を去り、大人は判ってくれないはバザンに捧げられる)で、クランクアップは翌年59年1月と言うのは、この作品好きな人なら精通してる情報だ。

今思えば、新人監督第一作として完成した本作がカンヌ映画祭のフランスからの正式出品作品の有力候補に押されたとき、古い映画界は猛烈と反対していたことが思い出される。青二才だったらトリュフォーが、カイエ・デュ・シネマ誌で色々と批評を書いていたり、確かフランス映画のある種の傾向と題する論文でフランス映画の墓堀人と異名をとった危険人物であり、58年にはアール誌でカンヌ映画祭の堕落を批判して映画祭からボイコットをくらったばかりだったのが理由だったと思うが、本作の原題タイトルが、いたずら、または、際限のない非行の意味も国際映画にふさわしいとは決して言えない等と論議されていた。ついに文化相に就任したばかりのアンドレ・マルローの議決を仰ぐ異例の事態にまでなったが、試写を見たマルローの一決で「大人は判ってくれない」のカンヌ出品が決定したそうだ。

カンヌ映画祭で「大人は判ってくれない」は満場の感動を読んで、最優秀監督賞受賞することになり、ジャン・コクトーが絶賛し、クルーゾーが感動告白し、ブニュエルやドライヤーが賛否を寄せて新人トリュフォーの誕生祝したのは有名な話だ。本作がゴダールの「勝手にしやがれ」(この勝手にしやがれと言うタイトルは、確か日本のタイトルを決めるときに、色々と口論になって、編集長だったかお偉いさんが勝手にしやがれって言った理由からタイトルがついたそうだ(虎ノ門ニュースの司会者の織島一平氏が言っていた))。とともに全世界でヒットしてヌーベルバーグの時代を開いた事は言うまでもない。この作品は日本で初公開された1960年3月の時は確か1時間37分の初公開版だったが、今回見たのは3分長い新しい劇場初公開版の方であった。こっちはどうやらトリュフォー自身が再編集したもので、音楽を部分的に手直ししたほか、父親がいつも探しているミシュランの旅行ガイドが、実はアントワーヌが盗んでいることがはっきりわかる(ルネと吹き矢の紙に使って遊んでいる)シーンなどが加えられている。

初公開版では、アントワーヌが悪い子に見えすぎる危惧で省いていたのを、本来の考えに戻したもので、この版を見たルノワールの、この映画は今のフランスの肖像画だと言う言葉にトリュフォーは大いに感激したと言う話もある。なお、ポスターは、トリュフォー自身が賛嘆し、「二十歳の恋」で登場させた、日本初公開時の野口久光氏の傑作ポスターを氏と関係者のご了解をえて復刻させていただいたみたいだ。この作品を見たのは今から10年以上も前。まだ私が20代前半の頃だった。まだ小難しい映画に手を出していなかった時代で、多分この作品がはじめての私にとってのヌーヴェルヴァーグの初体験だったと思う(気づかないうちに既に出会っている可能性もあるが)。今では、SNSが発達して、10代の子でもありとあらゆる情報が得られる時代だったが、私が初鑑賞した時代はまだそういった画期的で便利な世の中ではなかった。この映画に出会ったのも、映画雑誌だったと思う。それも美容院に行って、手渡された映画雑誌を見て知ったのだ。

この作品を10代でもし私が見ていたらどういった感情を迸らせていたのだろうか…。そんな事は考えても仕方がないことだが、私はこの作品を見ている最中、この少年がきっと自らの人生にピリオドを打つのではないだろうかと思いつつ見ていた。しかし彼が見せたクライマックスの静止画、あれが凄く余韻に残り、観客に様々な連想をさせている。おっと、すでに感想のようなことを書いてしまったが、前振りはこの辺にして物語を説明していきたいと思う。本作は冒頭に、エッフェル塔が見える建物と建物の隙間から見えるファースト・ショットで始まり、カメラはひたすらスライド撮影されていき、あらゆる近くからエッフェル塔が写し出される。

さて、物語はアントワーヌ・ドワネルはパリの下町に住む13歳の少年。学校ではいたずらばかりして先生に目をつけられている。今日も、ピンナップガールのカレンダーを授業中に回覧しているところを運悪く担任教師に見つかって立たされた。立っている間もアントワーヌのいたずらはやまず、壁に不当なる罰に泣くドワネル。天のみぞ知る。目には目を、歯には歯をと落書きし、おまけに踏韻を間違えて、罰に書き取りの宿題を出されてしまった。アントワーヌの家は、モンマルトルの麓に広がる歓楽街ピガール近くの狭いアパルトマン。両親が共働きなので、買い物とゴミ捨てはアントワーヌの役目だ。日が暮れて帰ってきた母に忘れていた買い物を言いつけられ、宿題もそこそこに走っていく。アントワーヌの父は会社員で快活なスポーツ好き、今はラリーに夢中になっている。

まだ幼いアントワーヌを連れた母と結婚したものの、毎晩残業だと言って帰りが遅く、家族を切り盛りすることに興味のない彼女とは何かと口論になってしまう。翌日、朝寝坊したアントワーヌは食事も取らずに家を飛び出すが、宿題をやってなかったことに気づいて悪友のルネと学校をサボることにする。映画のハシゴをしたり、カフェのフリッパーで遊んだり、移動遊園地の回転シリンダーに乗ったり。前の晩に盗んだへそくりの金も、父からもらった昼食代もたちまち使ってしまった。その帰り、クリシー広場の雑踏で、知らない男とキスしている母を目撃した。母もアントワーヌに気づいたようだ。その夜おそく、寝袋にくるまって寝ていたアントワーヌは、帰りの遅い母に腹を立てた父が喧嘩する声を聞いた。

同じクラスのモリスのおせっかいで両親はアントワーヌがずる休みしたことを知った。前の晩のうちに、借りてきたルネの欠席届を母の執跡で写しておくつもりが、できていなくてズル休みの言い訳に困ったアントワーヌ。ルネは母が足を折ったと嘘をつけばいいと言うが、そんな嘘はとても言えそうにない。だが、いざ3人の前に出ると思わず母が死んだ大嘘をついてしまった。嘘はすぐにバレ、やってきた父親に平手打ちされた。もう家には帰れない。アントワーヌはルネの手引きで、ルネの叔父の印刷工場に泊まることになった。その夜、散歩に出た街で、美しい女の人が犬を探していた。手伝おうとすると若い男が現れて追い払われた。夜明け近く、チーズ店の前に配達された牛乳を盗んで飲んで空腹を癒した。何食わぬ顔で学校に行くと、家出に驚いた母が迎えに来た。

母は優しくアントワーヌをお風呂に入れると、昔の恋のうちあけ話をしてくれ、文学好きの母らしく、作文のテストで5番以内になったら1000フランあげると約束してくれた。彼はバルザックを発見し、暗記するほど夢中になった。バルザックの写真を飾り、蝋燭をあげて危うく火事になるところで、父はカンカンになったが母の執り成しで、その夜は親子3人で映画を見に行って楽しく過ごした。アントワーヌのクラスの仲間たちは、モリセの自慢の水中メガネをめちゃくちゃにして、おべっか使いのモリセに復讐した。作文のテストが返された。アントワーヌの作文はバルザックそっくり。カンニングを見破り怒った担任は、停学だ、校長室へ行けと命令した。アントワーヌが逃げ出した。彼を庇ったルネも後追った。

アントワーヌはモンマルトルの丘にあるルネの家に行った。彼の家は広く、不思議なものがたくさんあった。彼の両親は放任主義で、ルネはアントワーヌよりずっと自由だった。その夜、時計の針をこっそり進ませて父親をクラブに追い出すと、2人で映画に行ったり、ベッドで葉巻をふかしながらゲームで遊んだりした。金に困ったアントワーヌは、父の会社のタイプライターを盗んで質に入れることを思いついた。シャンゼリゼのオフィスに忍び込んでタイプを持ち出すところまでは成功したが、仲介の男に子供だと甘く見られて上手くいかなかった。タイプには通し番号が付いているので売ることができない。アントワーヌはタイプを返すことにし、大人に見えるようにと帽子で変装していくが、すぐに夜警に見つかって父に通報されてしまう…。

飛んできた父親は、もう手に負えないとアントワーヌを警察に連れて行った。アントワーヌは犯罪人のように留置され、調書をとられて護送車に乗せられた。格子窓の後に、夜の街のネオンが美しく遠ざかる。アントワーヌの瞳に涙が光った。若すぎてアントワーヌを産んだ母は、我が子を育てることも、我が子を理解することもできない。アントワーヌをもてあました彼女は、予審判事に少年鑑別所に入れてくれるよう頼んだ。まるで林間学校にでも入れるかのように海岸の近くだと良いですわ…と言って。アントワーヌは少年鑑別所にもなじまなかった。食事の時に許可なくパンをつまんだと言って殴られた。身上調書を作るために女医の面接を受けたりました。面会の日、ルネが映画雑誌を差し入れに持って会いに来てくれたが、面会も差し入れも許されずに帰っていった。

面会に来た母は、アントワーヌが父に内密に書いた手紙に怒っていた。もうお前を引き取らない、勝手に自立しなさい。アントワーヌは帰る家を失った。運動場でフットボールの試合中に、隙をついてアントワーヌは逃げた。走りに走って海外にたどり着いたアントワーヌの目の前に、海が果てしなく広がっていた…とがっつり説明するとこんな感じで、スコープのスクリーンいっぱいに映画が大きく呼吸するかのように展開されるエッフェル塔が艶やかに美しいオープニングで始まる傑作中の傑作である。数え切れないほど繰り返し見てきた作品をこの度もう一度見たが、さらに好きになっていく映画だ。この1本だけでトリュフォーは偉大な映画監督になったと言える(もちろんの他の作品も素晴らしいのは多くある)。それにしてもジャン=ピエール・レオがひたすらに海に向かって走るラストシーンまで、深い感動と永遠のきらめきがあり、全編を通して天才的な映画だなと思う。あぁ参った…。


このマセガキの少年、レオーの表情はもはや子役レベルではなくー役者として仕上がっていると思う。後にジャン=ピエール・レオーは様々な作品、それこそベルトルッチやゴダールの作品にも出ているが、ハリーポッターシリーズのダニエル・ラドクリフがポッターと言う印象が強く、本作のレオーが演じるアントワーヌ・ドワネルもそれと一緒で似ているような感覚があり、ドアネルがレオーでありレオーがドアネルなのだ。といっても彼は速攻でそういったイメージの払拭をしているが、やはり彼と言えば「大人は判ってくれない」が真っ先にくるし、トリュフォーと言えばやはり本作の名前が第一に来る。そもそも私はトリュフォーの作品をほとんど見ているが、この作品が1番好きなのだ。基本的に1番有名どころの作品を好きと言うのはあまり言わないのだが、この作品は誰がなんと言うと、トリュフォーのフィルモグラフィの中での最高傑作だろう。



いゃ〜、やっぱりヌーベル・バーグ特有の開放感と自由な下記に満ちたホールロケーション撮影はたまらないね。この作品の撮影を担当したのは言うまでもなくアンリ・ドカエで、天才的なカメラワークはたまらないものだ。すでに彼はメルビル監督の撮影を担当していて「海の沈黙」や「恐るべき子供たち」などは低予算映画なのにもかかわらずスタイリッシュで画期的な映像を作り出してくれていた。誰がなんと言おうと名キャメラマンである事はもはや事実である。今思えば、この作品に出てくる役者と言うのは、ネームバリュー的にはほとんど知られておらず、もちろんカメオ出演でジャンヌ・モロー、ブリアリ(確かこの2人は無料の特別出演だったと思う)などが出てくるものの、主人公は14歳の無名の少年だった。そして警官役ではジャック・ドゥミも引っ張り出され、トリュフォー自身も遊園地のシーンでレオー(子役)が怖がらないように、一緒に回転シリンダーの客になって出演をしているのだ。

今となってはフランスの映画界のスーパースターのジャン=ピエール・レオーだからね。この映画は子供たち(少年)が大活躍するため、早くに亡くなってしまったジャン・ヴィゴの傑作(私個人1番好き)「新学期・操行ゼロ」をどうしても頭をよぎっしてしまう。レオーは、オーディション会場で、1人でやってきたそうで、他の子役たちは親を同伴していたが、監督は1人で来た彼を見て、強烈なインパクトをくらったと言っている。結局のところ、幾たびのキャメラテストの結果、やはり彼が抜きに出て素晴らしいことが証明され、アントワーヌの役は文句なしに彼に決まったそうだ。最後の審査まで残った少年たちもきっちりと教室のシーンで出演しているとの事。本作の撮影に入った時、ジャン=ピエール・レオーは14歳になっていたそうで、アントワーヌはいつもこそこそと人に隠れて物事を行い、親や先生の言うことに従うようなふりをしながら自分の思い通りのことをするのだが、レオはそれほど陰険で暗い少年ではなかったそうである。実際に今回のBDの特典にあったオーディション映像を見ると、堂々と明るく話をしていた。

しかも彼は、ふざけるのが得意な男の子を探していると聞いて、僕はきたんですとトリュフォーに言ったそうだ。なんとも腕白小僧のような発言なのだろうか。孤独で反社会的で極端に反抗的であった子供にはうってつけの性格だろう。どうやらトリュフォーが言うには、完成試写会の時、映画を見終わった彼は目に涙をいっぱい溢れていたとのことだ。自分の自伝的な物語に完全に同化してくれて、そこに彼自身の人生の物語を見出したと思ったそうだ。この映画はトリュフォーの自伝的な作品なのは周知の通りで、彼が15歳の時に、色々と家出を繰り返し、警察に突き出されて、パリ郊外の感化院に送られたと言うのはこの映画の中で描かれているが、決定的に違うところがあるそうで、それが感化院に容れられたのは終戦直後の事だったので、映画で描いたものよりもずっと悲惨な状況だったと言うことだ。

それにしてもこの映画見るといかにトリュフォーの子供時代が大変だったことがうかがえる。きっと両親はかなり彼に罰を与えていたんだろうなと思う。そもそもこの作品は当初子供の世界を描くオムニバス映画の1話として構想されていて、題名が"アントワーヌの家出"になっていたが、共同脚本のムーシーと長編映画に発展させる決意を決めたそうだ。それにはやはりジャン・コクトーの小説"恐るべき子供たち"の中の1行が重要だったそうだ。トリュフォーは兼ねてから早く大人になりたいと思っていたそうで、大人になれば何をやっても罰せられない自由な生活が待っていることを確信していたからだ。なので、子供は何をやっても罪に罰せられる。これほど不当な事はないと言うのが本作に苦々しい思い出を込めて少年時代をブッこんでいることがわかる。甘いノスタルジーなど、ひとかけらもないし、彼にとっては子供の頃を懐かしむ大人たちの気が知れないのであると言うほどだから強烈な子供時代だったのだろう。



本作は冒頭から、子供たちが不当なる罰を受けている。日本もそうだが、フランスの学校でも、生徒たちを立たせると言う風習(?)があるようだ。今のご時世そんな事をしたら大変なことになるだろう。昔はバケツに水を汲んで両手で持ったまま廊下に立たされたものだ(私の世代ではないが)。主人公のアントワーヌがハイネックのセーターを着ているのだが、ここは私の偏見だが、ハイネックを着ている子供と言うのはマセガキであり、鼻につき、子生意気なおぼっちゃまのイメージがある。しかしながらこの作品では貧困に喘ぐどちらかと言うと一人ぼっちな少年を体験するのだが、罰として宿題を出す。席につけと教員が言う場面で、アントワーヌが睨み付ける表情は印象的だ。フランスの教室の机には、万年筆のインクのようなものが設置されていて、子供たちがそのペンにインクをつけてノートに黒板の文字を書き写すのだが、1人の少年がインクが出すぎて、汚れてしまってどんどんノートの紙をちぎっていくのだが、最終的に用紙がなくなってしまう一場面をカメラが先生とのクロスカットで映し出すのがなんとも面白く印象的だった。

そして、その後にアントワーヌが、教員に壁の落書きを消す道具を持ってこいと言われて、戻ってきて教員(彼は黒板で文字を書いているため、生徒たちには背中を見せている)の頭にピースサインをして揶揄ったりする場面も印象的だ。それを真似て生徒たち全員がやったりする。その後に外に出るアントワーヌと友達のファッションを見ると非常にお洒落なのである。やはり先程言ったようにマセガキで小生意気なおぼっちゃまファッションだ。しかも両親の留守中にアントワーヌは母親の化粧道具みたいなのを使って、香水をかけたり、ブラシで髪の毛を整えたり、まつげを伸ばしたりとやはりおしゃれに興味津々の少年らしい。その後はしっかりとディナーの支度をする。生意気なのか真面目なのかどっちつかずの少年だ。と、帰宅した母親はなんともエレガントでおしゃれなファッションで身を包むが、家の中はやはり貧困層だ。

それと父親が帰宅してお金をもらおうとするのだが(昼食代)、1000フランを要求したが100フランしか最初渡さなくて、鼻で笑うほど絶望した彼に、その後に500フラン渡してトータル600フランをもらって微笑むジャン=ピエール・レオー扮するアントワーヌの表情が可愛らしくて仕方がない。そしてその後母親が宿題なんかしないで早く食卓の用意をしろと言う場面も、なんだかいい家族だなと一瞬思ってしまったのだよ。何事も時と場合を考えるものだと父親はその後に言う。その後に父親と息子が母親の作った料理に対して、冗談を言い交わす場面も可愛らしいというか微笑ましい。そして翌日、学校の友達と2人と映画へ行ったり、ゲームセンター(?)で遊んだり、音楽流れる中パリの街並みが写し出されるのはすごく好み。そしてこの映画の名シーンの1つである回転シリンダーにアントワーヌが体験する描写は画期的。

本作はカメラワークが非常にやはり独特である。ズームしたり、ロングに変えたり、その場面の臨機応変さが巧みに写し出される。母親が夜遅く帰ってくるから、父と一緒に食事を作るシーンもアントワーヌの笑い声が満ちていて可愛らしく、その後に彼の寝顔(起きてるけど)を捉える長回しも彼の美形の顔がフレームいっぱいに映り込み男の俺でも美しい顔だなと思ってしまうのだ。その後に、学校を休んでしまった理由付けとして、母親が死んでしまったととっさに言う場面で、先生がすまなかったと信じ込むのだが、あの教員の性格からしたら、絶対に信用しないような話を信じてしまうところがなんとも滑稽であった。そして授業中に先生が、廊下に他の先生と父親と母親に会う場面を見て、アントワーヌが手で口を塞いで、やばい…とんでもないことになった…と思う表情をカメラが徐々に前進していく場面もか良い。

父親に平手打ちされて、家出してしまうのだが、こんなたわいもない事柄で、家出するのもなんだかなぁと思うが、彼が残した手紙が非常に大人っぽくて面白い。内容は伏せておくが、映画を見てぜひ確認してほしい。その後にジャンヌ・モローがお店から出てくるのだが、ほんの一瞬しか出てこないにもかかわらずやはりオーラが違う。クリスマスだって言うのに、1人で夜の街を徘徊するアントワーヌの淋しげな(音楽と共に)表情がなんともショックである。そして牛乳瓶を外に置いてある箱から盗み出すのだ。ケン・ローチ監督の傑作「ケス」の少年も確かトラックに積んであった牛乳瓶を盗んでいたなぁ。アントワーヌは隠れてその大きな牛乳瓶をがぶ飲みするのだ。その後もひたすら彼を追うカメラ、バルザックに興味を持った彼がタバコを吸いながら読書をするシーンも印象的だが、彼が不注意で家の棚を燃やしてしまう場面で、父親にこっぴどく叱られるのだが、母親が仲裁に入り3人で映画を見に行くのだが、その見に行った映画がジャックリヴェットの「パリはわれらのもの」と言う作品であるのにまず驚く。子供にはまだ早い映画である。家族連れが見るような作品ではない。

なんてことない、子供たちが人形劇を見て楽しんでいる様々な表情が写し出されるシーンがあるんだけど印象的。そんでタイプライターを盗んだことによって留置所に入れられるんだけど、ここで結構有名なジャケットとかパッケージのシーンになっている、アントワーヌが着ているハイネックを口元まで隠した檻の中に入った描写が写し出される。今は多分ないと思うけど、昔は警察署に1人しか入れない小さな檻があって、まるで動物扱いされているようだ。そしてこの映画で唯一彼が泣いた護送車の檻の中から街のネオンを眺めながら大粒の涙を流すアントワーヌの表情がなんとも心に染みる。まさにこの場面はタイトル回収と言っていいほど、大人は判ってくれないの最大の原因性だろう。そして少年院の鑑別所で、手渡された飲み物を飲んですぐに吐き捨てるのだが、あれは一体なんだったんだろうか。何を飲まされたのだろうか?コーヒーのように見えたが、その後にすぐに自分で手作りのタバコをマッチで吸う場面は手際が良かった。その後に指紋とられて顔写真を撮られたりする。

あのいつも一緒につるんでる友達が面会に来ても、追い返されてしまうところを必死にガラスの向こうで呼び止めるアントワーヌの表情がなんとも切ないし、仕方なく自転車に乗って帰ろうとするその友達の切なさも非常に伝わってくる。きちんと彼が自転車に乗って去るシーンを撮影しているし。
そして少年は抜け出して、ひたすら走るのだどこまでも、たどり着く海辺まで…。今回観たブルーレイには、特典映像として、当時の子供たちのオーディションが載っていたり、カンヌ映画祭でのレオーのインタビューなどがあって非常に面白かった。余談だが、本作を観たジャン・コクトーが、トリフォーに言った言葉があり、それを引用する。"わがフランソワ君、君の映画は傑作である。奇跡のようなものだ。親愛のキスを送る"である。

それにしても個人的に心残りなのが、本作以降に、ジャン=ピエール・レオーの成長がわかるようにシリーズ化されていて、「二十歳の恋人」「夜霧の恋人たち」「家庭」「逃げ去る恋」とアントワーヌ・ドワネルシリーズに出演しているのだが、「大人は判ってくれない」から20歳の恋までの間の空間が抜けているため、彼の10代が映像としてないのがファンの僕にとっては非常に悔しい思いである。きっと監督もそうだろう。俺の中でレオーとドロンは格別な役者である。とゆうか、彼は様々な国の監督と仕事をしているのも改めて思い返すとすごいなと思う。まずは同じくフランス出身のゴダールの「男性、女性」「ウィークエンド」そして私のゴダール作品の最も好きな「中国女」つまらなすぎて嫌いな政治映画の「楽しい知識」にも出演しているが、ユスターシュ監督の「サンタクロースの眼は青い」「ママと娼婦」ポーランドのイエジー・スコリモフスキー監督の「出発」(これは確か金熊賞受賞した作品)、ブラジルのグラウベル・ローシャ監督の「7つの頭のライオン」(これは確かメディア化されてないと思う)やイタリアのベルナルド・ベルトルッチ監督の「ラストタンゴ・イン・パリ」にも出演している。


最後に、「大人は判ってくれない」の出発点と自伝的要素について少しばかり話したい。まず、タイプライターを盗むエピソードは、監督自身の体験に基づいているようだが、彼が少年鑑別所に送られることになったのは度重なる家出のせいの方だったそうだ。タイプライターを盗んだのは、父の会社からではなく、自分が使い走りとして働いていた事務所からで、トリュフォーが捕らわれて、事務所側からある事ない事を、罪を擦りつけられたそうだ。絨毯を盗んだとか、仏像を盗んだとかいろいろあったそうだ。劇中にも出てくる、タイプライターを子供の代わりに売りさばいてくる大人が出てくるが、実際にそういった盗品を引き取って、子供に代わって金に変えてくれる男がいたみたいだ。そしてアントワーヌが教員に嘘をつく、母が死にましたと口走ってしまう事柄については、実際に監督は、ドイツ軍占領下の事だったので、父がドイツ人に捕まったと言ったそうだ。でも彼の叔父の1人が実際にドイツ軍に捕らえられてしまったこともあるそうだ。そうすると、トリュフォー監督の「終電車」で、教会の中でレジスタンスの闘志がゲシュタポに捕まるエピソードはここから来ているんだろうなと推測ができる。

そもそもこの作品の出発点は、子供をテーマにした短編の連作を撮るつもりで、20分ほどの映画になるはずだったシナリオの原型はクロード・シャブロル、ジャック・リヴェット、シャルル・ビッチと監督の4人が考えた"4つの木曜日"と呼んでいた新聞の3面記事を下にして作ったものだったそうだ。彼曰くニコラス・レイの影響受けたとのこと。そもそも小学校をろくに出てないトリュフォーが、シネマクラブを通じて知り合った1人の映画批評家のアンドレ・バザン当時30歳と彼は当時15歳だったが、お二人の出会いから、ここまで傑作的で数奇な人生をたどったトリュフォーの幕開けになることを知っている分、やはりこの映画がどれほど凄いのか、彼の過去の人生がどれほどのものだったのかを含めてみると深いなと思うのだ。残念なのはバザンが40歳で亡くなってしまったことで、彼のために傑作を作ろうと意気込んでいたトリュフォーが彼にこの作品を見せられなかったことが悔しくて仕方ないと言っていた。

そもそも自分から志願して軍隊に入るが、インドシナ戦線に送られることを恐れて脱走を決意し、途中で諦めてつかまってしまって、軍刑務所に投獄されてしまい、精神的父親と呼んでいるそのバザンに助けてもらい、保護者となって軍隊から救出してくれた過去がある。この時確かトリュフォー20歳だったと思う。51年創刊のカイエに彼が22歳の時に書き始めたのだ。長々とレビューしたが、この作品はほとんどの人が知っていると思うが、見てない人も中にはいるだろう。もし映画に迷ったらぜひともこの作品をいちど見てみてはいかがだろうか。お勧めする。あぁ、傑作。
Jeffrey

Jeffrey