青雨

トレインスポッティングの青雨のレビュー・感想・評価

トレインスポッティング(1996年製作の映画)
4.0
官能の源泉には、必ずそれぞれに抱えたフェティシズムがあるなら、この映画に対する齟齬(そご)を振り返るように、ここに描かれる風景を僕は生きたことがないことに思い至る。

けれど、1996年に公開された年に22歳だった僕の口癖が、「選択」だったことを面白く思う。周囲の映画好きが絶賛するのを横目に、この映画に近づこうとしなかった僕が、ユアン・マクレガー演じるレントンの台詞「Choose life」と同様の言葉を使っていたのは、もしかすると彼らよりも近い場所にいたからではないのか。

そうした事情もあって、40歳を過ぎた頃に初めて接したところ、この映画が何を揺さぶり、何をブレイクスルーしようとしたのかが、不思議によく分かるように感じた。そして、一瞬も弛緩せずに観通したいっぽうで、それを受け止めるための心的状況が、僕にはまったく備わっていないこともはっきりと分かった。

それは、映画がその暗喩性のうちに持つ逆説と言っても良いかもしれない。その風景を知らず、共感もしなかった僕が、この映画に描き出されたものと背中を合わせるように立っていた。ことによると、この風景を知ったうえで共感した誰よりも近くに。



監督のダニー・ボイルについては、1つの深層的なテーマとして「ここではないどこか」へと向かおうとする衝動があるように感じる。

問題となるのは、まるで血中に宿るそうした衝動の行方というよりも、外在的な要因であれ内在的なものであれ、それぞれの袋小路がどのような姿をとっているのかに焦点が当たっているようにも思う。彼らが何に手を伸ばしたのかではなく、どのようにして「手を伸ばすしかなかった」のか。

スコットランドが、イングランドに対して抱く血の中に沈んでいくような鬱屈。そこに生まれ育つということの、出口のないローカリズム。そして彼らは、ただでさえ若さという憂鬱を抱えている。窃盗であれドラッグであれ暴力であれ、そうしたすべてを高密度にシャッフルしていくことで、彼らはどこにも行けないという場所に自ら落ちていく。

どこにも行けないという場所だからこそ、自ら落ちていくことでしか、自身の宿命に対して主体的に関わることができなかった。有名な「Choose life」というセリフは僕にとってはそのように響き、また、そのようにしか響かない。

一種のローカリズムの高密度性は、ときに普遍へと至る。ファッションと音楽がそうした気分に寄り添った。そこには、ある種の抑圧/解放、屈折/倒錯というフェティシズムがある。けれど僕の原風景には、レントンたちが疾走したあのストリートがない。

それにも関わらず、僕は彼らと背中合わせに立っていた。

屈折によって上昇する高度をもたない心は、落下すべき地平も持たない。しかし、もしかすると僕は、空に向かって落下していった先で、屈折の地平に降り立ったのかもしれない。世界はときとして、鏡像のような逆説によって真理を明かすことがあり、僕にとってのこの映画もまた、そうした現象のうちの1つなのかもしれない。

共時的な(その場・その時の)共感や感動がすべてではないことを、こうしたときに強く思う。

★イギリス
青雨

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