Jeffrey

大樹のうたのJeffreyのレビュー・感想・評価

大樹のうた(1958年製作の映画)
4.0
「大樹のうた」

冒頭、母なるガンジス河が見える新生活。両親を亡くしたオプー、大学から社会へ、就職難との闘い、作家、自伝的小説、裕福な家の娘、幸福な結婚生活、妻の早産での死、絶望のどん底、幼い息子、原稿を破り捨てて放浪の旅へ。今、親子の絆を大樹のような生き甲斐で映し出す…本作はサタジット・レイのオプー・シリーズ完結篇。第一部「大地のうた」では主人公オプーの出生から少年期を、第二部「大河のうた」では両親を失くしたオプーが学業を終え自立するまでを、この第三部ではオプーが結婚して子供を生み、育てる過程を描く。製作・監督・脚本はサタジット・レイ、原作はビフティブシャーン・バナールジ、撮影はスブラタ・ミットラ、音楽はラヴィ・シャンカールが各々担当。出演

さて、物語は両親を失ったオプーは、幸福な結婚生活を送っていたが、彼女もまた死んでしまう。絶望の日々が続き、作家として道を志す彼は原稿を破り捨てて、放浪の旅に出る。そうした中、死んでいった妻の一人息子と出会い絆を深めていく。

本作は冒頭に組合のストライキのような掛け声が聞こえる。そこにオプーの姿がある。彼は作家を志しているようだ。彼は都会のボロアパートで日々を過ごしている。ベッドから起き上がり、外に出て土砂降りの中バケツを手に持ち水を貯めつつ、雨に濡れながら体操をする。続いて、彼がヒゲを剃る場面へと変わる。そこに1人の老人がやってくる。彼は足を休ませてくださいと言い、椅子にどうぞと言う。この老人はどうやら家主らしくて、3カ月間滞納している家賃を払ってくれと彼に言う。

家主は今日払えなかったら他の人に貸してしまうと言い、その場を去る。カットは変わり、オプーが部屋の本棚から本を持ち、何か作業している。彼はカバンを持ち外出する。そして近所のおじさんが若旦那と彼を呼び、手紙を渡す。その人はなんでお前さんには手紙が少ないんだ、親戚などいないのかと言いながら彼はその場を去る。続いてオプーは教師募集の広告を見て訪れた職場に到着する。だが、あしらわれてしまい、違う求人先に行く。そこの雇い主は、いちど職場を見てから決めろと言い、彼はラベル貼りの職場を見て諦める。

そして彼はバスに乗り、自宅へ帰宅する。彼はベッドに横たわり民族楽器の笛のようなものを吹き始める。そうするとプルと言う友人が彼の自宅へやってくる。どうやらオプーは寮から姿をくらましたらしく、ずっと探していたと言うのだ。 2人は近場のレストランで食事をする。そして鉄道外車の仕事について話したり、ストライキのせいで諦めたなど色々と収入の話をする。そして従兄弟の結婚式があるからぜひ来て欲しいと頼まれる。

続いて、2人は夜道を歩きながら会話をする。そして結婚式の当日に彼は招待され、同行する。壮大な結婚披露宴が始まる。川の横を太鼓打ちながら通る音楽隊、御神輿のようなものを担いだ白服の男性数人が川辺を横切る。そして女性にドレスアップされた花嫁が花婿と対面しようとする。親戚一同が一斉に集まり、花婿のビヌーが神輿の中で長旅と暑さと疲れで気が狂い始めているところを関係者が心配し、何とか落ち着かせようとする。

その気が狂った花婿に娘の母親がこの結婚は中止と怒鳴り始めショックを受ける。父親はこの結婚が中止になったため、この家は祟られると言う。彼の側近の人はまだ結婚式まで10時間あると言う…どうやら結婚相手を今から探そうと考えているようだ。プルはオプーに花婿になってくれと頼む。彼は動揺する。だが、花嫁は呪われるからふさわしい若者は君しかいないのでぜひ花婿にと一斉にお願いされる。彼はそんなの迷信だろうと断るが渋々承諾する。

続いて、挙式は無事に終わり、花婿となったオプーお花嫁がお互いの事情や過去や生い立ちを話す。 2人は新居を訪れる。2人はぎこちなくも新生活を楽しもうとする。彼女は夫に対して仕事を少し減らせない?そうするとあなたが早く帰ってこれると言い、どうやら2人で長くいたいようだ。そしてカメラは2人の生活を捉えていく…。


続いて、楽しい日々も束の間で、彼に悲劇が訪れる。それは妻の死である。彼は悲しみに絶望する。カメラは汽車の汽笛の音、黒煙と通過する汽車をとらえる。そして彼はプルに旅をする、小説はもっていく完成したら送る。気にいってくれたら出版してくれと手紙を残して旅立つ。彼の唯一の救いは妻が産んでくれた赤子である。

彼は到着地点の山々の上から自分が書いた小説の原稿をばらまく。カットが変わり、お面をかぶった少年が林を歩く描写へと変わる。カメラはゆっくりとスライド撮影する。少年はパチンコ玉を発射させる。それを遠くからスーツ姿のメガネをかけた男が見ている。そして先程のパチンコ玉が当たったのだろうか、死んだ鳥を彼が持ち帰り老婆に見せて老婆は仰天し驚く。そしてこの悪戯小僧めと住民が彼を叱る。

その少年はオプーと死んだ花嫁の間に生まれた子供だった。彼はお金をたまに仕送りで送るだけで、ほとんど子供に対しては言及しない。それをおじさんがなんて情の薄い奴だと悲しむ。ここから物語は佳境を迎えクライマックスまで行く…と簡単に説明するとこんな感じで、三度の悲劇が主人公を襲う残酷な三部作の完結編だ。

この作品はクライマックスの肩車のシーンがとてつもなく感動する。これは2000年代に入ってロシアの監督アレクサンドル・ソクーロフが作った「ファザー、サン」にも見受けられる父と息子の絆を映すワンシーンである。この作品の画期的なところは学業を終えて社会に出たオプーが土壇場で美しい女性と成り行きで結婚してしまい、新生活を楽しみつつ彼女の死と引き換えに赤子(息子)を授かったが、息子が生まれたことによって妻が亡くなったと言う出来事も事実で、彼は最初息子に会おうとはしなかったのだが、徐々に父性愛に目覚めて息子に会うまでの物語を美しいインドの原風景をフレームインして描いている所だ。

この作品は岩波ホールで公開された事は有名だが、本当に当時の岩波ホールから公開された作品は素晴らしいものだらけでほとんどVHSのまま埋もれている作品が多くあるため、非常に残念だ。レイの作品だってほとんどが日本未公開なのが多くて私自身見れていないのが多くある。淀川さんがお勧めする「チェスをする人」なども非常に見てみたいものだ。

それにしても花嫁を演じた女性の東洋的な美しさには一目惚れしてしまう。なんて魅力的な容姿を持っている女性なんだ。インド女性特有の美と言うものというのだろうか、非常にずっと見ていられる美しさだ。

それにしてもこの作品は冒頭から非常にショックである。お前にはなんで手紙があんまり来ないんだって言う下りがあるのだが、それは我々は「大地のうた」から見続けていると彼がことごとく肉親を失って身寄りがないことを知っている以上、かなりショックを受けてしまう。そうした彼が前作ではカルカッタで青春を謳歌しようとして終わるクライマックスを見ている分、冒頭の粗末なアパートで1人で住んでいる姿を見ると寂しさを感じてしまう。

孤独に孤独を重ねてしまう非常に残酷な描写である。そして彼は毎日のように職探しに街を駆けずり回り、体力もすり切っていく。自分がやりたいような仕事にはなかなか出会えず、家賃代も溜まってしまい食事もほとんどできずにいて寮の友達が訪れて彼におごってもらった食事がここ最近できっちりと食べられた食事だと言う下りも痛々しい。そんな中、自伝的な小説を書きながら作家としてデビューするのを夢見る彼の姿を見ると目から涙が流れる。

従姉妹の結婚式に行った彼が花嫁と土壇場で挙式をあげる下りはユーモアがあって面白い。暑さのせいで発狂してしまった花婿が抑えがきかなくなり、結婚式が中断と言う形になるが、その地域の迷信話では予定通りの時間帯に結婚式を挙げなければ一生呪われると言う言い伝えを打破しようとプルがオプーに頼み込むのだ。そして結婚する。日本ではなかなか考えられないような出来事である。

そして私がこの作品で感動するいくつかの場面の中でもトップ3に入る感動場面で、裕福な育ちの花嫁がボロアパートで一緒に暮らし始め、何一つ愚痴を言わない妻の姿と彼が彼女に英語を教える楽しい日々を過ごしている姿を見ると、最初にオプーが心配していた貧乏暮らしについていけるかというのが全くもって問題がなかったと観客が知る瞬間は本当に美しく優しい映画だなと思わされた。

そして次に感動する場面は妻が流産で亡くなってしまい、ショックを受けるオプーに男の子が無事に生まれたと言う朗報も彼にとってはショックを一切和らげることなく、1人で放浪の旅に出る場面で、自分が今まで書いてきた原稿をばらまいてしまうシーンは人が人生に絶望した時に訪れる行動だなと思い非常にショックを受けた。それほどまでに土壇場で結婚した女性を深く愛し共に歩んで行こうと思っていた矢先の出来事で、きっと彼が子供には養育費として工面して送っていたが、決して会おうとしなかった理由は自分の周りはみんな不幸で死んでいくため、自分と関わってしまったら妻が残した結晶とも言える息子まで何かしらで命を奪われるんじゃないかと思ったんじゃないかと個人的には思う。それが作品の意図として正解なのかはわからない、ただ自分に置き換えたらそういう行動をするだろうなと思う。あまりにも自分の周りの人々が死んでしまうのだから…。

そしてこの映画で最も私が感動したのは、5年の月日が過ぎた時に英国出張から帰宅したオプーの親友プルが炭鉱で働いている彼を探し当て、まともに面倒を見てもらえてない息子のために父親として責任を果たすように説得して、彼が村に行き息子の寝顔を見ているうちに愛情が目覚めていく場面で、そのままラストにつながる親子の肩車のシーンだ。これは映画史上最も素晴らしいシークエンスの1つだと言っても良い。

これが父親としての喜びなのだろうと思わされたシーンだった。

余談だが、前作2作に続いて連続で作品を監督していなくて、途中に「音楽サロン」と「哲学者の石」が挟まれているのを見ると、きっと興行収入的に前作がインド内でヒットしなかったから、改めてまたプロデューサーがつきにくかったり、資金が足らずにこの2作品をベンガル地方でヒットさせてその収入で1959年に自らのプロダクションを設立して念願であった完結編を撮ったとの事。
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