あんじょーら

夫たち、妻たちのあんじょーらのネタバレレビュー・内容・結末

夫たち、妻たち(1992年製作の映画)
1.2

このレビューはネタバレを含みます

ニューヨークに住む大学教授であるゲイブ(ウディ・アレン)は妻ジュディ(ミア・ファロー)と共通の友人夫婦であるジャック(シドニー・ポラック)とサリー(ジュディ・デイヴィス)を夕食に誘っています。ジャックとサリーがやって来たものの、食事に出かける前に急に「私たちは別れる事にした」と告白します。それによって激しく動揺するジュディ。そんな4人が分析医やインタビュアーに答えるような構成で綴られた映画です。






リアルであることを追求するために、あえて手持ちカメラでのブレやカットを綺麗に繋げないことの違和感を残すという手法を取っているのだと感じました。たしかによりリアルさが増す作り方だと思います。もしかしたら全く違う意図があるのかもしれませんが、私個人にはこの映画の撮り方に作り手のリアル志向を、より『これは映画なんだけれど、映画としてだけ捉えて欲しくない、現実に起こりうる話だよ』という意識を感じさせる作りだと感じました。もっとスマートにも出来るけれど、あえてしないんだよ、という意識のことです。



加えて、役者さん方のキャスティングが凄いです。ウディ・アレンはとりあえず置いておくとして、ジャックを演じるシドニー・ポラックのダメさ加減と身なり、そして見た目が非常にリアリティを感じさせます。この人そのものがこういう人なんじゃないのか?と感じさせるリアリティです、無論演じているんでしょうけれど。しかも妻役のジュディ・デイヴィスのエキセントリックというか神経質さは、人柄という説得力を超える何かを感じさせてくるので、もはや演じているのではないんじゃないか?元々こういう傾向のある人なんじゃないか?あるいは演技が上手いというだけでない何かがあったのではないか?と思わせるに充分でした。本当にキャスティングが見事。



ストーリィは、そんなにウディ・アレン監督作品見ているわけではなく、よく知りもしないのに!というお叱りを受けそうですが、まぁ似たような不条理モノ且つ、諦観を感じさせるに充分なストーリィでして、特に秀逸であるとは感じなかったですが、諦観や不条理を感じさせるのは上手いと思いますし、主人公であるウディ・アレンに共感出来る人ならば、結構なカタルシスもあると思います。




人生、という大きなテーマを、恋愛関係という身近なテーマと絡めることでの世界観をつむぎ出すことに成功している作品だと思います。ウディ・アレンがワンパターンであったとしても、だからこそアレン作品が観たいし好きだという人もたくさんいるわけで、その点で成功しているわけで、素晴らしいと思います。




ウディ・アレンの真骨頂である諦観と不条理に耐える男って影があって素敵、な方にオススメ致します。






アテンション・プリーズ!


ネタバレありで感想にまとめてみたくなりました。ただし、あくまで個人的な意見です。これだけたくさんの映画を製作し、監督出来ている人に才能やセンスが無いわけないですが、割合失礼な言い方になってしまいますが、私にも好みがあるわけです。その好みとどのように違うのか?を考えてみたくなったわけです。なので、結構ネガティブな発言がありますので、ご注意下さいませ。















































何で私はウディ・アレン作品がこんなに相性悪いのか?もっとはっきり言えばキライなのか?が個人的に腑に落ちれば、それ以上考えなくてよくなるわけで、不快な感情だから放っておけば良いというものでは無いにではないか?と考えているからです。何かがひっかかるわけです。その「何か」を出来るだけ言葉にしてみたいということです。





ウディ・アレンがどのような意図であったのか?は知りようが無いですし(恐らく、直接インタビュー出来たとしても、著作で自らのフィルムを語ったとしても『本当のところ』は吐露しない可能性があるわけです)、受け手である観客が自由に判断し感じることが出来るわけで、製作が終わったところで作者の手を離れ、作品としての評価であるべきだと思います。極悪な犯罪者が描く美しい絵は評価されるべきであって、製作者の人格で作品が判断される必要は無いのではないか?と私は感じているということです。ただ、ウディ・アレン監督作品から良い印象、感情を持てない、という結果だけが積み重なります。




つまり、相性が悪いんじゃないか?と。何故相性悪く感じるのか?なんですが、私は比較的『諦観』と『不条理』もしくは『理不尽』をアイロニカルに扱った作品に親和性が高いと個人的には思います。単純なハッピーエンドでない、その先を見せてくれる作品にシンパシーを感じますし好きな映画に「ファーゴ」と「未来世紀ブラジル」と「アメリカン・ビューティー」が入って来るくらいなんですが、しかし、ウディ・アレン監督作品には全然響かないんです。




この作品ではリアルに作りこむことに、役者の実人生に寄せてくる部分があると感じられてしまうんです。実際にどうか?は分からないけれど、ジュリエット・ルイスとキスしたかったから作ったんじゃね?という疑問が湧き易くなる手法を取っているんですから、それを気持ち悪いと感じられる人がいることを分かってやっているんだと感じてしまうのです。もし考えて無かったなら、それは馬鹿でしょうし、でも分かっていてあえてやってるんだよ、という態度もありだとは思いますが、気持ち悪いことに変わりは無いです。




ただ単に、ウディ・アレンのテーマに成長が無い部分も鼻に付くものはありますが、ここまで相性悪いのは、おそらく(というか全然違う可能性あります、知ってますが、私には『そう見えました』ということです)、リアルであるために登場人物のキャラクターなり経歴の何かを映画内人物のキャラクター像に取り入れている、ということです。つまり映画をリアルに見せるために(かどうか不明だけど、結果として)、配役された人の特徴を映画の登場人物であるキャラクターにも当てはめる、という『映画を現実側に寄せてきている』という手法があまり好きではないのかもしれません。



ウディ・アレンから連想する事といえば、私には映画監督としてよりも先にスン=イーという当時付き合っていたミア・ファローの養女と交際(後に結婚)した、という事実ですね。この件に話が及ぶと、ウディ・アレンを支持する人は「しょうがないじゃないか」とか「当人同士の話だし」とか「そういうこともある」という擁護が多いんですけれど、私はどうしても嫌悪感を拭い去る事が出来ないんですね。仮にミア・ファローの立場、あるいは養子の中の誰かが自分であったらとか、自分の娘や息子の卑猥な写真を配偶者が持っていることを知ったり、そこから露見したりするのは漫画だとしてもヒドイ話しですが、現実ですからね・・・付き合いのある女性の養子を大人の関係に持ち込むことが私には結構な、それもモラル的な、倫理的なハードルがあると思うんですけれど、非常にグロいモノを感じさせるわけです。で、このキャラクターに似せるという現実は取らずに、この映画の場合で言えば(もちろん後の事件ではあるわけですけれど)、ジュリエット・ルイスとキスはするけど叶わぬ恋、というロマンティシズムに殉ずるという奇麗事だけは、自分のキャラクターに取り入れるという事に欺瞞を覚える、ということです。都合よ過ぎる、と感じるんです。



そうすると、個人的親和性が高いはずの『諦観』や『不条理』や『理不尽』さえ、都合よく扱いすぎてないか?特にミア・ファローを受動的な勝利者とするのもかなり「あざとい」と見えてくるし、諦観と言いつつも、都合の悪い時だけは「しゅん・・・」として見せるけれど、実際は違うんじゃないか?という感覚に陥ります。まさに都合の良い加減なんですね。そこがウディ・アレンの良いところとも言えるし、悪いところとも言えるわけです。なにしろ本人役で主演するわけで、本人だからこその良いところもあるし、本人だからこその悪いところももちろんあるわけです。



ついでにもうひとつ『なんだかんだ言っても「諦観」というフィルターを通せばかっこよくみえるでしょ?見た目がカッコ悪い私も捨てたモンじゃないんだよ』という自負が感じられるのが不快なんだと思います。ぐるっと1周回ってきたマッチョ志向の裏返しみたいなモノが透けて見えるんです。



もし、これだけ多作なのであるなら「諦観」を乗り越える作品が生まれても良いと思いますし、出来上がった世界を壊すことこそ作家の成長といえるんではないか?と思うのです。壊す方向ではなく、深める方向に振れているんでしょうけれど、それにしては多作過ぎるのではないか?と。「諦観」や「不条理」は別にそんなに大層なテーマではないのではないか?いい大人がこれだけをテーマにするのは大人げないんじゃないか?と感じさせるのです。



「マッチポイント」で言えば、最後の主人公クリス(ジョナサン・リース=マイヤース)がカメラ目線でアンニュイな目線をしている部分を『何もかも手に入れたけれど不幸』と感じるか『何もかもを手に入れて影さえ感じさせる俺ってニヒル(という自己陶酔)』と感じるかで評価が割れるのと同じように、この「夫たち、妻たち」も、ゲイブに扮するウディ・アレンがレイン(ジュリエット・ルイス)を諦めることを諦観と感じるか、諦めて1人が1番とか言ってるけど虫が騒ぎだせばまた動き出すならレインが手に負えなかっただけ(自己欺瞞)じゃないか、と感じるかで評価が分かれそうです。