Octahedron

コヤニスカッツィのOctahedronのネタバレレビュー・内容・結末

コヤニスカッツィ(1982年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

壁画に描かれた人類と美しい自然の映像から始まる
画面に人の存在を映し始めてからは、一切自然は登場しなくなる
映像には無数の建物、道、車、戦車、消費物、人
人の営みを引いた目線で映し出していく
人によって創られたものと、同様に人により「創造された破壊」が映し出される 自分で創ったものを自分で破壊する狂気
とにかくおびただしい物の数々にこう思わずにはいられない
「なぜこんなに必要なのだろう?」人間がやっていることなのに人間に理解できないのである
こんなに必要だろうか?必要ないだろう 物も、人間も
一切説明がないので何を思うかは想像に任せるというスタンスだが、彩度の低い映像、楽しいとは言えない音楽、そしてラストに提示されるコヤニスカッツィという言葉の意味を見れば、何を伝えたい映画か、色んな解釈はあれどだいたいの方向性は一致するのではないだろうか
冒頭に映し出された自然が見事な効果を発揮しており、「『これ』以上何を望んでいるんですか?」と問いかけられているのを感じる
恐ろしいのはこの狂気の世界に疑問を持っている人が非常に少ないことである 少なくとも私は人生でそんなことを考えていそうな人をほとんど見たことがない この映画のテーマのような話をしようものなら彼らは「つまらない」と言って取り憑かれたようにバラエティ番組を見るだろう 私たちは狂気の中に生まれたばかりに狂気の自覚を持ちにくいのだろうか
最後に映し出されるのはスペースシャトルの打ち上げ事故 高く上ろうとしたものが爆発炎上し、落ちていく 人類の先に待つ滅びを暗示している
現実として、我々は滅びの予兆を数多く目撃し、一部の人が警鐘を鳴らしてくれているにも関わらず、まるでその音が聞こえていない まるでパチンコ店の雑音のように、耳に入っているはずなのに聞かず、目の前のパチンコ台が当たるかどうかだけに夢中なのである
具体的には地球温暖化や人口過剰問題などが滅びの予兆である この映画は人口過剰問題への警鐘だという見方も解釈によっては可能である 当たり前のことだが、これらは「ただ熱くなるだけの問題」と「ただ人が多くなるだけの問題」ではない ドミノ倒しのように二次的な問題、三次的な問題が無数に生まれていく これらに歯止めがきかなかった場合の被害は多少の情報と想像力があれば容易に予想ができ、世界規模に広がるので私たちにも当然大きな被害が出たり、何なら紛争に巻き込まれることもあるかもしれない
にも関わらずテレビでは芸能人の不倫がどうのとかそんなことしか言わないのだ 理由は「数字が取れて利益になるから」だ
コロナウイルスに対しては生活を変えようと呼びかけるのは、同様に数字が取れるから、それと「自分たち企業に直接的に、早急に関わる事案だから」にすぎない コロナウイルスの終息は企業の利益に繋がる しかし地球温暖化や人口の変化を抑制したところで「利益がない」 長い目で、広い視野で見ればあるのだが、「今の自分たちには」利益がない
これぞまさに「資本主義」の持つ狂気である 一度始まると利益を追求することを止められず、気が付くと自然を破壊しつくし病的なパターンが現れる 恥知らずな狂気を隠すために我々は皆共犯者にされている部分がある
そして最後に再び映される壁画の人類 これこそが私たちであり、いくら技術が発達しようと我々自身がこれ以上の存在になることはないのだという自覚が必要である 私たちは私たち自身をもっと理解し制御できるようにならなければならない
このような映画がまるで時代劇のように、「こんな時代もあったんだね」と他人ごとに感じる未来が来ることを願う
Octahedron

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