Jeffrey

ラストキング・オブ・スコットランドのJeffreyのレビュー・感想・評価

4.0
「ラストキング・オブ・スコットランド」

〜最初に一言、独裁者の内面世界へ入り込んでいく道を見出し、フィクションとして描かれ、若者の道徳的ジレンマとと、アミン政権時代のショッキングな実話を織り交ぜながら展開する恐怖映画の傑作である。これは実在の事件を背景にした「サルバドル:遥かなる日々」や「ミッシング」のような、サスペンスの偉大な伝統の枠に入る映画だと私は言いたい。普遍的な魅力を持ち、優れた物語が歴史の中で何度も繰り返されたジェノサイドを我々観客に冒険と共に見せてくれた作品だ〜

本作はケヴィン・マクドナルドが2006年にフォレスト・ウィテカー主演にした実話ベースの映画で、主演を務めた彼がアカデミー賞最優秀外国語映画賞黒人として主演男優賞受賞した記念碑的映画でもある。因みに黒人が主演を受賞したのはこの作品、彼で止まっている。本作は1970年代にウガンダで独裁政治をしていたイディ・アミンが、政権を奪取してから独裁者へとなるまでを、架空の人物である主治医となった若きスコットランド人の視線で描いた物語で、原作はジャイルズ・フォーデンの小説"スコットランドの黒い王様"である。今回久々にBDで見返したけどやっぱり迫力のある映画だ。

1971年のウガンダで、国民は、1人の指導者の登場に熱狂したのである。その名は、イディ・アミン。ヘビー級のボクシングチャンピオンとして名声を築き上げた後、軍人として数々の手柄を上げた国民的なヒーローである。類稀なカリスマ性と強いリーダーシップ、そして溌刺としたキャラクターで民衆を魅了した彼は、独立まもないウガンダの未来を託すのに最もふさわしい人物として、国外からも幅広く支持され、期待を集めた人物だった。しかし、クーデターによって最高権力を手に入れた時から、彼の魂の腐敗は進行。妄想にとりつかれた独裁者へ、さらには非情な殺人者で、次第に狂気をエスカレートさせていく。そんな実在の独裁者のおぞましくも魅力に満ちた人物像を、側近として仕えたスコットランドの青年医師の視点から、ドラマティックなサスペンスとして描き出した傑作である。

この作品でアミンを演じたフォレスト・ウィテカーは見事にアフリカ系アメリカ人としてアカデミー賞最優秀主演男優賞受賞しオスカー俳優仲間へと加わった。確か2006年は同じく「ドリーム・ガールズ」に出演していたジェニファー・ハドソンが助演女優賞をアフリカ系アメリカ人女性として受賞していた(ちなみにこの作品で受賞したフォレスト・ウィテカー以来、主演男優賞で黒人が受賞した人は誰1人といない)。ウィテカーは既にクリント・イーストウッド監督の「バード」で、高い評価を受け、カンヌ国際映画祭の主演男優賞に輝いていた。本作では、独裁者の光の部分と影の部分を見事に捉えた渾身の熱演を披露している。ナショナル・ボート・オブ・レビューを皮切りに、ゴールデングローブ賞、アカデミー賞等2006年度のほぼ全ての映画賞で、主演男優賞総なめしていたと思う。

フーデンの処女小説を元にしたドラマは、スコットランドの医学校を卒業したばかりのニコラス青年が、人助けの理想に燃えて、クーデター直後のウガンダにやってくるところから始まる。偶然にもアミンの怪我の手当てをしたことが縁で、大統領の主治医に任命されるのだ。このときのジェームズ・マカヴォイはめちゃくちゃハンサムである。多分この作品で彼有名になったと思う。アミンと交流のあった数人の欧米人をモデルに作り上げられた彼が、無意識のうちに犯していた罪の重さを知りストーリーは完全なフィクションでありながらも、実在の人物や、エア・フランス機のハイジャック事件などの歴史的な出来事が、絶妙に絡み合っていくドラマは非常に緊迫感がある。かなり昔の映画だが「ジャッカルの日」と言う映画があるのだがそれに非常に似ている感じもする。





さて、物語はスコットランドの医学校を卒業したニコラス・ギャリガンは、自分の技術を本当に困っている人々のために役立てたいと言う志を胸に、ウガンダのムガンボ村にある診療所で働く道を選んだ。時は、1971年軍事クーデターによってオボテ政権が倒れ、イギリスの支援を受けたイディ・アミンが、新しくウガンダの大統領の座についた直後のことだ。元ヘビー級ボクシングのチャンピオンであり、軍隊のヒーローでもあるアミンは、国民の支持と期待を一身に集める希望の星だった。そんな彼が、診療所の近くで演説する時、興味を抱いて出かけていくニコラス。私の政権は言葉だけでなく行動する。力合わせてこの国をもっと良くしようと熱弁を振るうアミンのカリスマ性にニコラスは、集まった多くの民衆と同様に強く惹きつけられるのを感じる。

そんなニコラスとアミンの運命が1つに交わる出来事が、演説会の直後に起こった。帰りの車で農耕用の牛と接触し、捻挫を負ったアミンの手当てを、たまたまニコラスが担当することになったのだ。捻挫の治療を終えた後、苦しんでうめき声をあげている牛を素早く射殺したニコラスの大胆さに、感銘を受けるアミン。さらに、かねてからスコットランドに傾倒していた彼は、ニコラスがスコットランド人だと知ると、うれしそうにTシャツの交換を申し出た。そのアミンの気さくさに、彼はますます好印象を抱いた。後日、大臣のワッサワの迎えで首都カンパラを訪れた彼は、アミンから直々に主治医になってくれと頼まれる。ムガンボの診療所と契約があると言って、一旦はその申し出を断った彼だが、先輩医師の妻サラと危うい関係になりかけていたことも手伝って、思案の末に大統領と彼の家族の主治医になる事を引き受けた。

こうして始まったカンパラでの生活。たちまちアミンに気に入られたニコラスは、アミンの代理で重要な会議に出席するなど、主治医以上の仕事を任せられるようになる。また、医者としては、アミンの第二夫人ケイの息子の命を救い、アミンから感謝のしるしとしてベンツのスポーツカーを贈られた。そうした贅沢三昧の生活に後ろめたさを感じることもある彼だが、人々の役に立つと言う当初の目的をアミンをサポートする形で果たしていると、彼は自分に言い聞かせていた。そんなある日、アミンがオボテ派の襲撃にあい、危うく命を落としかける事件が起こる。スケジュールが外部に漏れている可能性が高いことから、身近に裏切り者が入ると激怒するアミン。疑心暗鬼に駆られた彼は、粛清の動きを加速させる一方で、信頼を寄せるニコラスへの依存度を強めていく。

そんなアミンの期待に応えようと、彼は、ワッサワの不審な動きをアミンに報告し、調査した方が良いと忠告する。その一言がワッサワに対する死刑宣告になってしまったことを、彼はイギリス人の高等弁務官ストーンから知らされることになった。ワッサワの行動が、実は製薬会社との商談に過ぎなかったとして、深い実績と後悔に駆られるニコラス。同時に、疑惑だけで人を消していくアミンの残虐なやり方に気づいた彼は、主治医の職を辞して故郷に帰りたいと申し出た。だが、時すでに遅し。新生ウガンダの建国に手を貸すと宣言したと言ってニコラスの辞任を拒絶したアミンは、ワッサワの件を盾に取り、君が彼を殺した、逆にニコラスに脅しをかける。今初めてアミンの本当の姿に気づき、呆然とする彼。その恐怖を、彼は、自分と同じ籠の鳥の運命に泣くケイに打ち明け、激情に流されるままベッドを共にした。

それでますます危うい立場に立たされたニコラスに、ケイは、状況は最悪よ。ここから逃げてと警告を発する。しかし、アミンの部下にイギリスのパスポートを没収されたニコラスには、もはや国外に脱出する術がなかった。切羽詰まった彼は、ストーンに助けを求めるが、かつてストーンの頼みをニコラスが無視したことを理由に協力を断られてしまう。脱出の切符は自分で稼げ…ストーンのその一言は、自由になるためにはアミンを暗殺するしかないことを、彼に告げていた。いよいよ独裁者の正体をあらわにし始めたアミンは、全アジア人の追放政策を発表。これに対してニコラスは、アジア人がウガンダの経済を支えていると反論するが、彼は全く聞く耳を持たない。しかし、欧米の新聞に非難の記事が掲載されるや態度が一変。今度は私の政策を止めなかった…と言って、ニコラスを責め立てる。

その気まぐれな態度に怯えながらも、ニコラスは、外国人記者向けの会見を開くべきだとアミンに提案。自分の存在感を示し、粛清の標的にされるのを免れる。そんな中で起こった新たな悲劇。ニコラスの子供を妊娠したケイが、秘密裏に堕胎しようとして失敗。不貞が発覚したことから、残酷な処刑の犠牲者になってしまったのだ。ケイの不倫相手がニコラスであると知れるのは、もはや時間の問題だった。覚悟を決め、アミンに毒入りの頭痛薬を渡すニコラス。その時、パレスチナ人テロリストにハイジャックされたエア・フランスの飛行機が、ウガンダのエンテベ空港に着陸したとの知らせが届く。アミンに同行を命じられたニコラスは、同じ車で空港へと向かう。空港に到着後、ニコラスの態度に不信を感じていた護衛によって、頭痛薬は毒入りであることが判発覚。

空港内の、売店でアミンから処刑を宣告される。死に至るまで数日にも及ぶと言う残酷な方法での処刑が始まった…とがっつり説明するとこんな感じで、1971年1月25日のクーデター成功直後、占拠したラジオ局からウガンダ国民に向けアミンが語りかけた、ここには憎と敵意が入る部屋は無い。我々の間には、ただ愛と友情があるだけだと言う言葉はジャーナリストの中では有名らしい。残念ながら、この日から1979年に及ぶ8年間は憎悪と敵意、そして恐怖で満たされた部屋に、ウガンダ国民は投げ込まれることになったとフリージャーナリストの下村靖樹氏は言及している。ウガンダと言えば東京オリンピックでウガンダ選手が逃亡したと言うのは連日ニュースになっていたな(もう強制送還されたらしいが)。

アミンの出生については、1924年にウガンダ北西部のウェストナイル州で生まれたと言う説や1928年に首都カンパラで生まれたと言う説などがある。カクワ族の父は農業従事者で、コート1枚持っていないほど貧しかったと言われ、アミン自身もあんなに貧しかった父がどうやって、妻を迎えることができたのか、とても不思議だと述べていたそうだ。その貧しさゆえ、わずかな基礎教育しか受けられなかった彼だが、20歳前後でイギリス植民地時代の軍に炊事、洗濯係として入隊すると、190センチ90キロの恵まれた体格と軍人としての才能を発揮し、次々と戦功をあげ着実に出世を重ねていき、最終的に陸軍大佐兼副司令官となった。そして運命の日、1971年1月25日。彼はクーデターを起こし自分は政治家ではなく、あくまでも軍人だ。誰もが自由に暮らせる国を作るために、近日民主的な選挙を行う。もちろん政治犯は釈放するし、政治亡命者は国に戻ってきても何も心配いらないと宣言し、瞬く間にウガンダ国民だけでなくイギリスを始め先進国の心をつかんだそうだ。

どうやらアミンを表すのに4つの言葉があるようで、それが恐怖、ユーモア、スポーツ、女性だとのこと。恐怖に関しては、アフリカで最も血ににまみれた大統領と形容されるほど、身内や側近を含め多くの人々を殺害した。その数は30万人とも50万人とも言われていることに由来するらしい。ユーモアについては、国を追われ亡命したオボテ前大統領を支持し、最も敵対関係にあったタンザニア大統領ニエレレは、1974年にエチオピアで行われたOAU(アフリカ統一機構、元アフリカ連合)の会議で、会場全体を抱腹絶倒とさせたユーモアあふれる彼のスピーチに引き込まれ、演壇を降りて拍手を求めに来たアミンの手を、国家元首としての立場を忘れ思わずに握り返してしまったと言う話があるようだ。そして3つ目のスポーツ。

1951年から1960年までウガンダのボクシングライトヘビー級チャンピオンであった彼はスポーツを非常に愛し、ウガンダスポーツ界の成長に大きく貢献したそうだ。ちなみにウガンダスポーツ界では、アミンの死を惜しむ声が多く聞かれているそうだ。そして女性に関する話は、1人以上の妻を持つ事は間違いではない。すべての妻に平等に愛を与えるならと言う言葉を放ったそうだ。軍隊時代、部下が双子の姉妹を同時に寝取ろうとした時に、彼がかけた言葉らしい。生涯を通じて愛には5人の妻と45人の子供がいたが、彼は自身の言葉を実行することができなかったそうだ。どうやらこの映画でも重要な役割を果たしていた第二夫人であるケイ(ケリー・ワシントン演じる)は牧師の娘として生まれたようで、ウガンダ最高学府マケレレ大学の学生だった彼女は、知性と美貌を兼ね備えた素晴らしく魅力的な女性だったそうだ。しかしながら不貞により妊娠してアミンに虐殺されるのだが、しかも彼女の死体の前にわずか4歳と8歳になる子供を連れて行き、どれほどお前らの母親が悪いやつだったかと怒鳴ったそうだ。


そして映画にも出てくるアジア人追放や映画のクライマックスでもあるエア・フランス139便ハイジャック事件などにより、後楯であるイギリスとイスラエルとの関係を悪化させた彼は、イスラエル国家(特にリビア)との関係を深めたそうだ。しかしながら食糧難や恐怖政治により国内の不満が高まる一方で、タンザニアの侵攻も失敗に終わり色々と追い詰められていき、最終的には合併症でサウジアラビアで亡くなったそうだが、1986年以来大統領を務めるムサビニ大統領のもとで、現在は順調に成長続けているそうだ。そして、国際協力機構による技術協力や青年海外協力隊派遣など、日本による援助も盛んに行われているとの事。それでもアミンの時代の方がまだ良かったと言う声も北部で聞かれているようだ。いつの時代どの政権にでも不満を持つ人が出てくるものだなと…。ちなみに1986年の活動開始以来66,000人以上の子供を誘拐し、暴力や恫喝により兵士や性奴隷として利用し、その残虐非道な行為が国際社会で大きな問題となっているそうだ。



それにしてもエンテベ空港を舞台にしたクライマックスは、一瞬たりとも目が離せない。アミンに対する裏切りが発覚し、空港内の売店で拷問にかけられる若い青年が、この後どのような運命になるのか、彼の運命とハイジャック事件の顛末が1本の線で結ばれていくラスト5分は、サスペンス本来の行き詰まる興奮を十二分に楽しませてくれると思う。何よりも恐ろしいのは、人間の本性と思わせられる究極の映画だ。これ実際に多分ロケ地はウガンダだと思うのだが、ムラゴ病院、国会議事堂、エンテベ空港など、アミン政権時代の記憶が生々しく息づいている場所を撮影場所に選び、悪夢の歴史をダイナミックに再現している点は評価できる。てかこの監督もともとドキュメンタリー出身らしいから、どうも見ていて一種ドキュメンタリーかのような場面がいくつもあった。ちょうど今五倫も開始し始めたところだし、彼が今から数十年前に監督した「ブラック・セプテンバー/五輪テロの真実」と言う作品を監督した人物だけあって、この手の緊迫感
溢れる映像表現はさすがである。娯楽性と社会性を兼ね備えた脚本も素晴らしいの一言だ。

そういえば余談だが、フォレスト・ウィテカーの映画デビューは、キャメロン・クロウ原案、脚本そして監督はエイミー・ヘッカリングの「初体験/リッチモンド・ハイ」の1982年の作品で、今でこそオスカーを手にした役者がニコラス・ケイジとショーン・ペンが出ていた作品で、その映画にウィテカーも出ていたのだ。もっと言うなら、脚本賞でクロウがアカデミー賞受賞しているので、本作でウィテカーが主演男優賞受賞してるからその1本の青春映画に4人のオスカーを手にした人物たちがいると言うことになる。今思えば、ポール・ニューマン主演のスコセッシ監督の86年の「ハスラー2」のほんの少しのビリヤード場でのフォレスト・ウィテカーの存在感はすごい印象的だったが、この少ない場面を見たクリント・イーストウッドが、ジャズサックス演奏者Charlie Parkerの半生を描く「バード」の脚本をなんとか手に入れ、ウィテカーを主役に抜擢したのは有名な話だ。見事に彼はトラックに身を滅ぼしていく天才ジャズマンの苦悩を演じて、先ほども言ったがカンヌ映画祭で主演男優勝受賞した。

さて、ここから本作の印象に残った場面を紹介していきたいと思う。まず最初にフォレスト・ウィテカーの表情を見ると温厚で優しい表情なのだが、この作品では1度権力を握ったのはどんな人間も怪物へと変貌するんだなと言うほどまでに変わり果てた彼の姿にまず拍手喝采とともに驚きを隠せない思いだ。確かにこの芝居でオスカーを受賞するのは当然なのかもしれない。しかしながらアフリカ系アメリカ人が受賞するとどうしてもネガティブな役柄率が高いなと当時思っていた。ここ最近ではそんなこともなくなってきたのかもしれないが…。この映画の独裁の恐怖についての分析は見事であるし、ウィテカー演じるアミンを再現することに最も全力を注いだ映画だと思える。そもそもスコットランド人の側近の視線で描かれた映画と言うことも非常に興味深い。どう見たってネガティブ・ヒーローである彼を主軸に映画が撮影されたことも驚きかもしれない。

それにしても本作のような独裁国家であり政敵を粛清するばかりの人物がアジアにもいる。北朝鮮である。日本からも近いその国で、血なまぐさい恐怖政治に支配されている国民がいると思うと気の毒で仕方が無い。実際拉致問題も解決されていないし、この映画を見る限り、疑心暗鬼となった独裁者は、粛清ばかりし、少しでも疑いのある周りの人間も同じように抹殺するんだなと、古今東西このメカニズムは変わらないんだなと思わされた。なんとも恐ろしいものだ。権力者にどんどん同化していく側近の心理も非常に巧みに描かれていた。アミンをここまで怪物にしてしまったのは、やはり欧米の政治家や文化人なのだろうか、一体誰が反省するべきなのか、色々と考えさせられる作品である。それにしてもこの作品脚本がめっちゃいいなと思った。若者の純粋無垢さと、狂人の怠慢さと暴力の間の、非常に微妙なバランスをとっている。これはマカヴォイ演じるニコラス・ギャリガンを、観客の気持ちから離れないようにしている。


にしても、マカヴォイがすごくハンサムで、青い瞳が印象的である。それからPercussion Discussion AfricaのNakawundeが流れる冒頭のバスのシーンとか良い雰囲気。これから地獄に遭遇する彼の暢気な心のうちを表してる様で。そういえばパテル監督が描いたVHSのまま放置されている傑作のカルト映画「アフリカ残酷物語・食人大統領アミン」って著作権の問題で全然ソフト化されないけど、そろそろしてもいいんじゃないかな。そして他にも印象的なところ言うと、やはり牛をスコットランド人が射殺して楽にする場面の緊張感はすごかった。なんといったってアミン大統領の拳銃をとって、射殺してしまうんだから。それに大統領の言い分に対しての言い回し方が非常にうまいスコットランド人だから、そこにめっちゃ気にいられる要素があるんだろうなぁ。あとこの映画1本見るだけでもスコットランド人がイングランド人を嫌いしているのがわかる。やはりどこの国も民族同士での毛嫌いはあるんだな。ところで、ジェームズ・マカヴォイ演じる青年が服を着替えるときにパンツいっちょだったところを、パンツを脱いでジーパン履くんだけどなんで?と思った。皮剥、皮吊るしのクライマックスの痛々しさはすごかった。


最後に余談だが、アミンとアミン統治時代のウガンダの略史を述べたいと思う。1972年、アミンは、ウガンダを黒人だけの国にしたいと言って、ウガンダに暮らす全アジア人を追放したそうだ。5万人以上のインド人やパキスタン人の家族が、わずか90日以内に街を出なくてはならず、手荷物だけだったそうだ。同じ年にアミンの敵と言われる人々へのキャンペーン(撲滅運動)によって、何百人もの人が誘拐され殺された。その中には、自らの内閣の大臣や政府の高官が含まれているだけではなく、裁判官、秘書官、大学教授、ジャーナリスト、会社役員、それに、理由が全くないまま、嫌疑をかけられた、幅広い一般市民までが含まれていたそうだ。イギリスとイスラエルは次第にアミン支援から離れていき、彼はリビアのカダフィや、ソ連の援助を求めるようになったそうだ。翌年の73年には、アメリカが、在ウガンダ大使館を閉鎖した。そうした中2003年彼は、腎臓機能不全によりサウジアラビアで死亡したそうだ。
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