だった

風の中の子供のだったのレビュー・感想・評価

風の中の子供(1937年製作の映画)
4.0
「風」が大人たちの事情(=世間体)という子供らにとっての透明な暴力を意味するのみで、自然美としては視覚化されていないのが少し淋しいものの、西部劇を思わせるようなシーンが散見されて面白い。喋らない取り巻きのガキどもや路地で対峙するやけに遠い距離感覚と立ち姿、縦構図。

子供を同じ目線で捉えるとなると必然的にカメラが低いアングルになるので、そこに清水宏の開放的な構図が重なると「広い荒野に向かう人」という西部劇の構図が自ずと立ち上がる。フルチンで水遊びするのを拒否する、つまり世間体という透明性に色を覚えた少年・金太のことを、水がなくても水泳ごっこをやる腕白な弟・三平が材木で叩くシーンなど、無言で行われる場面がとくによく、そういう場面こそ西部劇の香ばしいにおいがする。

日除けで窓を塞ぐ、門戸を閉めるという野次馬・世間からの遮断を意味する行為が印象的に登場するが、清水の開放的な映画においてそれは決して好ましい行為ではない。ゆえに父の免罪をはらす文書が発見されるハレの場面は、家財を差し押さえられて家には何もなく、襖は奥まで全開の開けっ広げなショットで映される。極め付けは父の釈放を祝う席で兄弟が、四方八方に開けられた窓から顔を出し「お父さん!」と呼びかけ、それにイヤな顔せず大人たちが応答する360°開放的な潔白を示す場面。あの多幸感こそ清水宏の真骨頂だ。

帰宅する父の車を兄弟が走って迎えるドリーバックの容赦ない速さといい、清水宏ほど子供を信頼し、正面から向き合った映画作家は他にいないと思う。ほぼあり得ないと思うが、会社へ向かう広い並木や父の逮捕、走る少年たちといい、エドワード・ヤンは「クーリンチェ』を撮る前に本作を観たのではないだろうか。
だった

だった