Jeffrey

活きるのJeffreyのレビュー・感想・評価

活きる(1994年製作の映画)
5.0
「活きる」

〜最初に一言、張芸謀映画史上の傑作の一つであり、ここまで国民党と共産党との内戦にはからずも巻き込まれた主人公の生き抜く姿を描いた作品を私は知らない。この作品は少なからず悲劇ではなく喜劇に描かれ、ブラック・ユーモアに交えた皮肉な作品だ。彼の代名詞の色、赤を封印して文化大革命時代に生きていく、そして激しく揺れ動く中で家族が呑み込まれ、庶民の視点で描かれた正真正銘の傑作である〜

冒頭、一九四〇年代の中国。資産家の男は博打に明け暮れる毎日。借金を背負い込み、財産を失う。妻と子供は家でする。影絵芝居で全国を巡演し生き延びる。戦火の中、蒋介石と毛沢東率いる軍、大躍進。今、人生はどこまでも続く…本作はミハルコフの「太陽に灼かれて」と同時にカンヌ国際映画祭審査員グランプリを受賞した一九九三年に年に余華(ユイ・ホア)が発表した同名小説を張芸謀が翌年に監督して公開された映画で、この度BDで久々に再鑑賞したがやっぱり傑作である。彼の作品の中で最も力強いドラマだと思う。この作品日本公開がそれから結構経って〇二年にされている。確か主演の一人を演じた葛優(グォ・ヨウ)は本作が代表作となり、カンヌ映画祭では主演男優賞を確か受賞していたと記憶する。文革を批判した作品なので、政治的理由によりもちろん中国では上映はされていない。しかし、世界が中国映画の凄さに舌を巻いたー本である事は間違いない貴重なフィルムである。主演の鞏俐(コン・リー)は、本作で一皮むけたかのような素晴らしい演技力を発揮していた。

本作は一九四〇年代から六〇年代にかけて、文化大革命への激動する中国、毛沢東時代を、必死にそして逞しく生き抜こうとする家族の姿を描いた珠玉の大河ドラマであり、張芸謀作品の中でもとんでもない傑作だと私は思っている。今回はBDで二度目の鑑賞だが、やはりテレビ放映時の吹き替え版を再収録してさらに四Kで発売してほしいものだ。とりわけこの作品は個人の生活の隅々までに入り込んでくる巨大な権力の下で生きる庶民を描き、どちらかと言えば国家のために生きようとするのではなく、個人のために生きようとする主人公の波乱に満ちた時代を描きつつも、ブラック・ユーモアに満ち溢れている映画である。前置きはこの辺にして物語を説明していきたいと思う。

本作は冒頭に、大勢の客で賑わうホールが写し出され、そこではサイコロ賭博をしてる男二人が写し出される。定員は片方の男性の負けですと言い、その男は今夜はついていない。つけろ(店につけを回すこと)と言い、舞台では影絵が上演されている。ホール係の男が差し出す筆で貸借帳に署名する男。そこに影絵師の力がない歌声が響き、その男はあの影絵芝居はなんだ。ロバの鳴き声のほうがまだマシだと言い、彼が歌って見せるのだった…。さて、物語は一九四〇年代の中国。徐家の家運は何年も前から傾いていたが、贅沢な暮らしぶりに変わらず、福貴(主人公の父親)は賭博に明け暮れていた。身重の妻、家珍は、そんな彼に愛想をつかし、幼い娘の鳳霞を連れて実家に帰ってしまう。賭博の借金がかさみ、ついに屋敷を失う時が来た。父はショックのあまり倒れ、帰らぬ人となった。半年後、病身の母と粗末な家に引っ越して悄然としていた福貴のもとに、家珍が娘と誕生した長男、有慶を連れて戻ってきた。家族揃って新たな生活を始めようと、父親は屋敷を奪った相手、龍二に借金を頼みに行く。男は金を出すことを渋り、代わりに影絵の道具を貸してくれた。旧友の春生らと一座を組み、影絵芝居の巡業に出る福貴。家で待つ家族を想いながら旅を続けるうちに、国民党と共産党の内戦が始まり、巻き込まれてしまった。

戦争の恐怖と無意味さを目にした彼は改めて命の尊さを痛感し、絶対に生きて帰ろうと心に誓う。最初は国民党軍に徴用され、次に共産党軍の捕虜となった彼と春生は、昼は大砲を引き、夜は兵士たちのために影絵を上演して生き延びる。戦いは共産党の勝利に終わった。彼が家に帰ると、母は既に亡くなり、嫁は政府の世話で湯を配る仕事をしている。娘は高熱を発して以来、口が聞けなくなっていた。彼が仰天したのは、屋敷のせいで地主に認定されたと言う龍二が群衆の前で糾弾され、即座に処刑されたことである。福貴と家珍は、自分たちの現在の身分が貧民であることを確認し、安堵の胸を撫で下ろす。一九五〇年代。毛沢東の大踊進政策により、鉄を増産するために各家庭からの鍋などの鉄製品が集められ、代わりに共同食堂が作られた。

福貴は苦楽を共にしてきた影絵の道具まで取り上げられそうになるが、製鉄所で上演することで許しを得る。町をあげて製鉄作業が始まり、彼の一家も総出で参加した。人々は寝る暇もなく働いたが、夢と希望に満ち溢れていた。福貴と家珍は、心優しい娘、いたずら好きだが姉思いの息子の為にも、バラ色の未来を待ちわびる。事故はそんな中で起こった。居眠りしていた息子が、やはり睡眠不足だった区長の車が倒した塀の下敷きになり、死んだのだ。その区長とは春生だった。一九六〇年代。文化大革命が始まり、福貴は町長の忠告に従って影絵の道具をついに処分した。年頃になった娘に二喜という結婚相手が見つかった。やがて孫が生まれることを知らされ、両親は再び幸せをかみしめる。そんな折、革命を推進してきたはずの春生や町長が走資派と糾弾される。

鳳霞の出産のために病院に駆けつけた両親は、医者がいないことを知って不安に駆られる。皆、反動分子として糾弾され、代わりに看護学校の紅衛兵が尊大に振る舞っている。娘は元気な男の赤ちゃんを産んだが、後の処置が悪く、命を落としてしまった。紅衛兵にうまく言い繕って確保しておいた医者は、過酷な拘留生活の後でマントウを食べ過ぎたために、肝心な時に動けなかった。数年後。年老いた福貴と家珍は、幼名をマントウと名付けた孫息子の面倒を見ながら暮らしている。一家は少年の純真さから学びを得る。過去の悲しみの上にある、ほろ苦い幸せとともに、人生は続いていく…とがっつり説明するとこんな感じで、激動の時代を庶民の視点で描き、カンヌ映画祭で絶賛された作品である(確か最も多くの涙を流させたと評判だった)。

二十世紀は激動の時代とよく言われるが、その時代の中国をひとつの家族を中心に描き、激しく揺れる社会の中で、どのように生きていくのか、どのように大義名分を果たしていくのか、様々な制約が課される日常生活でどのように幸せをつかんでいくのか、その中で、この家族は毎日を懸命に生きているのか淡々と写し出されていく。彼らの喜びと悲しみと言うのは、または希望を失わない心は、テクノロジーが急速に発展した当時の日本の庶民とも重なる部分が少なからずあると思う。そして監督は中国が長年に苦しめられてきた文化大革命を庶民の視点で描いた作品をどうしても作りたかったと言っているように、様々な優れたスタッフを起用し渾身の力で描ききっている。伝統芸の一つである影絵を織り込むなどまさに彼らしいアートがこういったスペクタクルな歴史大作にも入り込む余地があり、映像や音楽も豊かなものになっている。

カイコーの傑作の一つ「さらば、わが愛 覇王別姫」の音楽を担当しているちチーピンの素晴らしいスコアは胸にくるし、美術監督や衣装担当も時代を伝える見事な仕事ぶりを見せている。今でこそ北京を中心とした栄えている中国の大都市ではファッショナブルな人々が多くいるが、農村地帯などではやはり人民服を着ている人は今でもいるのだろうか、この時代の人々はほとんどみんな似たり寄ったりの服装を着ていて、全体主義的な空気感がファッションからも見てとれる。もちろん毛沢東の宣伝ポスターなどが自宅の部屋に飾ってあったり、壁画として登場したりしているので、美術セットからでもそのような空気感を漂う。そして台湾と言う言葉が結構出てくるが、台湾に逃げ込んだ蒋介石に対しての侮蔑的なセリフ回しもそのような空気を醸し出す。

この作品には前作の官能的なドラマは皆無であり、あくまでも国民軍の死体の山を見せつけて戦争のむごたらしさを教える前半部分とその日常を細やかに描いていたのとは打って変わって、後半部分では、共産主義化の日常を淡々と切り取っている。このようなシンプルな物語を監督ならではの表現方法で時代の流れを的確に表している。やはりすごい監督だと思う張芸謀は。それにしても主人公の夫役のグォ・ヨウは、覇王別姫にも出演していたなぁ。確かこの当時って、張芸謀と公私に渡るパートナーだったと思うのだが、コン・リーの時代とともにどんどん老け込んでいく感じがとても凄いと思った。この手の監督と言うのはー種の俺の選んだ女は美しいだろうと言うのを映画として自慢する傾向があるが、この作品ではこの女優すごいだろうと言わんばかりの身なりの作り方である。そこまで特殊メイクしてないと思うのだが、冒頭の時代からクライマックスの時代にかけてのリーの変貌ぶりがまさに中国を代表する女優だなと思わせられた。

ほら、例えばフェリーニだったらマンシーナ、小津安二郎だったら原節子、ヒッチコックだったらグレース・ケリーとそんな感じでさ、あるじゃない。かくして情を新鮮な映像美で魅せる前作らとは違った演出が楽しめるモニュメンタルな作品である。監督は中国の北部出身と言うことで、前作の三部作(紅いコーリャン、菊豆、紅夢)に見られた赤のカラーイメージがあるのだが、中国北部では赤と言う色は生と死のシンボルとのことであり、色々と納得した。だからどれも生の象徴である赤を基調とした強烈な生々しさがあったんだなと。私がこの作品を非常に気にいっている理由の一つと、この作品がいかに画期的かと言うと、まずマクロ的な大河ドラマではなくてミクロ的な大河ドラマとして作られている点である。何が言いたいかと言うと、基本的に壮大な中国スペクタクル歴史物と言うのは主人公もしくは他の脇役の登場人物にフォーカスして政治的活動を大いに映す側面を持っているが、この作品はあくまでも主人公は政治活動しない。

ただ単に家族を養い助けるためにどう生きていくかを模索しているのだ。そして一人の庶民の生活にフォーカスを絞って、彼らの待ち受ける運命をひたすらに捉えているのだ。これが普遍的なリズムを拡張し、つまり我々観客はまるでドキュメンタリーを見ているかのような錯覚に陥るほど集中してこの一家を見つめていけるわけである。余計なものがないため、このミクロの世界にどっぷりとハマれるのだ。なんだろう、ー番本質的な部分から我々観客に訴えているスタンスが非常に好きである。多分きっとメロドラマ風にも仕立てている感じもするし、歴史的な作品が苦手な若い層から、映画に興味がない(歴史)方々にもぜひとも見ていただきたい映画だ。何の先入観もなしに騙されたと思ってみて欲しい。



いゃ〜、この映画一つで中国の歴史がすごくわかるし、アヘン戦争のアヘンと言う言葉から、中国共産党が気にするメンツも主人公の男から賭け事を通して伝わってくるし、非常に勉強になる作品だと思われる。主人公の夫は金銭感覚が全くなくて妻から見れば子供のように無邪気に賭博を楽しんでいるが、徐々に物語が佳境に入り、困難に直面してきた頃、彼は少しずつ成長していくのだ。責任感を身に付けていき、妻や家族を助けようと試行錯誤する。彼の行う行動はどこかしらおっちょこちょいの喜劇人に見えるかもしれないが、わりかししたたかで、やはりそこら辺は中国人のDNAが垣間見れて私的には面白かった。精一杯愚か者に見えるかもしれないが、彼がこの理不尽な世界を生きていくためには、悲しんでばかりはいられないのだろう。

一方、妻のほうは基本的には、夫には逆らわず、意見も何一つ言わず、どちらかと言うと低姿勢で頼み事をする。しかしながら息子を失ってしまった瞬間に癇癪を起こし、どこまでも深い悲しみに入り込む。しかし、彼女は平常心を忘れる事はなく、忍耐に忍耐を重ねて、苦難に立ち向かっていく姿がなんとも力強くこの映画の励みの女神として輝いていた。実際に彼女(女優)は子供がいなく、母親と言う存在をどのように演じていいかわからなかったと思うが、直感に従って芝居をしたのではないかと思うほどに素晴らしい母親像を演じていた。そして中国の伝統文化の一つ影絵芝居を理解し、もちろんテーマである文化大革命も知れる。半ばこの作品は四十五分間ほどは文革時代を描いているが、街頭デモや反革命分子の糾弾といった他の作品にも見られるようなものは極力避けている傾向が見てとれる。

主に主人公一家に起こることだけに焦点を合わせている。台湾や香港の人はもちろんのこと、外国にいる中国人や西洋人もこの作品をに目を通すと思うが、誰が見ても物語の時代背景が理解できるようにきちんと整理されている。そもそも原作は読んだことないから、原作に歴史的背景がほとんど描かれてないらしく、読んでも大躍進や文革へのアンチテーゼであることがほとんどわからないようになっているようだが、映画はきちんと歴史的状況を際立せていて、監督らしい視覚的なリアリズムがあちこちに見える。そもそもこの原作は既に何本か映画化されているようだが、特権的な立場から描いている作品が多いと監督は言っていた。私はどれも見たことがないため何とも言えないが、少なからず表現に厚みを持たせたこの作品は評価に値するのではないだろうか。そもそもこの作品を見ていると、非常に映画的な側面ではないエンドクレジットが用意されていることに気づく。何が言いたいかと言うと、平凡な日常に戻るのである。

これ以上言うとネタバレになってしまうからあまり言及はできないが、小説はかなりの長編で、あまりに悲惨で痛々しい場面は結構カットしていると監督がインタビューに答えているように、最後に主人公と牛一頭しか生き残れなかったらしい。これは小説なら受け入れられるが、映画では酷すぎるし、ありがちな結末であると言っている。確かにそうだろうとうなずける。いかに中国人が貧しくても、希望を失わないと言うメッセージ性があり、自暴自棄になる事は無いと訴えたいかのようである。それがクライマックスの平凡な◯◯までの日常へと戻っていく演出の最大のポイントなのではないだろうか。ここで中国の影絵芝居について少しばかり話したい。白い幕の後から照明を当てて人形の影を映しながらセリフを言って歌を歌う中国の影絵芝居。その歴史は古く、五代(十世紀)の頃に始まって、続く宋代に広く人気を集めるようになった。時代や場所によって多数の流派が生まれ、人形の大きさも数センチのものからーメートルのものまである。人形の顔や衣装などのデザインにもそれぞれ特徴があるが、いずれも精巧な作りで芸術的評価が高い。人形は最初は紙で作られていたが、後に丈夫で保存の効く獣皮で作られるようになったとの事。



それにしても冒頭から地獄絵図のような主人公のダメダメ振りがやばい。どこまでも賭博が大好きで、自分のことを制御できず、賭け事はアヘンと同じだ。急にタツと体に悪いと言う始末であるから驚く。そしていつ見ても息子の死に対面する母親役のリーの芝居に泣かされる。そんで車でひいてしまった区長がまさかの前の同士仲間で、対面して罵声を浴びさせられる区長の気持ちもわかるし、子供を奪われた両親の気持ちもわかる場面はものすごくきつい…。そんで毛沢東主義が台頭する中、病院で、産気ついた娘が大量出血するシーンの狼狽する場面も終始落ち着かない状態で見てしまう。この後どうなるか分かっているのに、やはり二度目見ても緊迫感がある。その殺風景な廊下のベンチで夫婦が座っているのを真っ正面からとらえる場面で、次生まれる子供の名前を何にしようか考えている夫婦の会話が非常に印象的だった。文化大革命で数多くの人々を死なせた毛沢東の肖像画がこの作品にはあちこちに登場するが、見ていて気分がいいものではない。

特に春生を嫌っている妻が、彼からの贈り物の毛沢東の肖像画を受け取ろうとしなかったときに、旦那が"でも毛沢東主席だぞ、断れるか"と言う場面などは滑稽の一言に尽きるだろう。中国人て政治的に関しては無関心な感じが私個人的には思うが、そんな事は無いんだろうなと思った。かなり政治的な背景を強調している作品ではあるし、大陸の中国人はみんながみんな毛沢東主席の言葉を信じて様々な事柄を経験したんだろうなと思う。特に結婚式で歌われる歌などがまさにそれを象徴的に表しているのではないだろうか。少なからず、中国の歴史を全て知っているわけでもないし、これからも全てを知る事は不可能だと思うが、この作品に誇張的な部分があるとは思えなかった。この映画のラストを見る限り中国人と言う民族は案外、幸福な生活を望んでいて、争い事はあまり好きでは無いんだろうなと言うのも感じる。

もちろん共産党は別にして。ほら、よく夫婦喧嘩をするときに中国人て、表に出て大声を出してわざとご近所に聞かせて、自分の夫はこんなにひどいのよ、自分の嫁はこんなにひどいのよと敢えて周りを巻き込んで夫婦喧嘩するではないか、日本人はそうではない。どちらかと言うと夫婦喧嘩したことを恥じてバレないようにする傾向があるが、中国と言うのは、どちらが正常で平凡な暮らしに正しいかと言うのを第三者に決めてもらいたがるのかなと勝手ながらに思った。だから息子が車で轢かれてしまった春生に対して圧倒的にあんたが悪い、私たちは何も悪くないと人前で大きな声を出して聞かせるように妻が言っていたのもその関連なのかなと思う。といってもあれは悲劇的だから怒りに満ちた行動とも取れるか。しかし、幸福な生活を望んでいても、政治の影響から逃げられることができないのだろうなと思う。しかしながら文化大革命後に毛沢東の像が次々と取り壊されているときの映像は唯一の救いであった。

それから影絵で、登場人物の感情表現をうまく伝えていたのは良かった。博打のツケで先祖代々の家を追われてしまう序盤のシーンは、ラストエンペラーの皇帝溥儀が追い出された場面と被ってしまったのは私だけでは無いはずだ。そもそも少し歴史の話をすると、一九一一年に起きた辛亥革命により約三百年続いた清朝が終わり、中華民国が誕生するのだが、それまでには盧溝橋事件に端を発し、日中戦争が始まり、蒋介石率いる国民党軍による北伐などがあって、一九四五年に日本は戦争に敗れ、中国では国民党と共産党の内戦へと進んでいくのだが、そういった混乱の中、人民たちは生活を余儀なくされていく。そして国民党と共産党の内戦は、国民党軍の圧倒的な戦力と兵力にもかかわらず、共産党人民解放軍の巧みな戦略や戦術によって、国民党軍は次々に撃破されていくのは学校でも習ったと思う。

人民解放軍が北京に無血入城し、中華民国の首都であった南京も陥落し、同年十月一日に毛沢東は北京の天安門上で中華人民共和国の樹立を宣言したのだ。建国後、まず共産党が取りかかったのは土地政策であり、土地改革法によってかつての地主から土地を徴収し、農民たちには分け与えたのである。新中国の主役は、農民であり労働者であり兵士である。だから主人公の男の屋敷が賭博の勝ち負けによって奪った男は反動的地主とみなされて処刑されたのだ。ここもなんという皮肉だろうかと見ながら思っていた。あの民衆の中を連行されるのを偶然そこにいた主人公が目にして、その男が遠目から何か彼に言葉を交わしているが、なんて言っていったかは分からないようになっている。しかし彼は、その瞬間に時代が大きく変わったことに気づいたのだ。人民解放軍に従軍していた際にもらった解放軍の証明書を護身札のごとく大切に扱ったのもその事柄があるためだろう。本当に生きるか死ぬかの事態だった。騙して騙して騙して生きていく、これが中国人のDNAに組み込まれてしまっていたのかもしれない…。

そういった時代の流れで、さらに毛沢東は知識人に対する激しい弾圧を繰り返し、反右派闘争展開し始める。そんで毛沢東はほぼ同時期に大躍進運動まで起し、農工業の飛躍的増進を目指したのだ。農業面では、大規模な集団化の実践として人民公社が設立され、そこに映画にでてくる共同食堂も設置されている。と、歴史に触れながら説明するとこんな感じなのである。主人公の男は城鎮貧民であった為に糾弾は免れ、土法炉の作業に参加しつつ影絵芝居で人々を楽しませていた傍ら、自分たちが作っている鉄が使い物にならないことを知らずに懸命にやっていたのを観客目線で我々が知っている分、皮肉であるなと思う。そして大躍進はあまりに過激なやり方であったため、経済的には行き詰まり、農村では自然災害と相まって大飢饉が起こりおよそ二千万人の人間が餓死したと言われている。

六〇年代に入ると、周恩来を始めとする方々が経済立て直しを図り、ようやく経済的に落ち着いたと思った途端に、毛沢東が再び激しい巻き返しをし、六十六年に毛沢東によってプロレタリア文化大革命が発動されてしまうのだ。それが以前とは桁違いのもので、毛沢東の申し子とも言うべき紅衛兵である。彼らの手によって反革命分子、悪質分子などを含む人々が家族と一緒に激しく批判され、伝統的文化、思想、風俗または習慣が徹底的に否定され、上は国家主席の劉小奇から下は村長に至るまで指導者と言う指導者が激しい自己批判を迫られ、ときには拷問も受け、多くの人々がこの革命の犠牲となった。やがて、一九七六年毛沢東が死去し、文化大革命の実権を握っていた四人組の江青、張春橋、姚文元、王洪文が逮捕されることによって、文化大革命と言う十年の大動乱時代はようやく終息する。こうした文化大革命の中、主人公の男の命を救った影絵人形は、四旧に属するものと言う理由で焼却するほかなかったと慶応大学総合政策学部助教授が言っているように、もはや悲劇を喜劇に描いた作品である事は確かな事実なんだろうなと感じた。
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