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日本侠客伝のzhenli13のレビュー・感想・評価

日本侠客伝(1964年製作の映画)
3.7
菅野優香『クィア・シネマ』(フィルムアート社)をつまみ読みしている。そのなかの「連累の観客論 ー原節子とクィアなジョーク」とそれに続く「ゴシップ、あるいはラディカルな知 ー高倉健のスター・イメージ」の各章、前者のタイトルは原節子であるにも関わらず実は『麦秋』で淡島千景と佐野周二が原節子演ずる「紀子」について語る3分程度のシーンと、そこで会話に登場するキャサリン・ヘプバーンを繋ぎ照射するという、いわば原節子不在の、やや複雑な構造の論考であるのに対し、後者は高倉健そのものがもたらすイメージについての簡潔でリニアな語りとなっている。その違いは、もしかしたらレズビアンとゲイの「歴史」の違いなどが投影されてるのかもしれないと勝手に思い、興味深かった。
『日本侠客伝』がその「ゴシップ、あるいはラディカルな知」で取り上げられており観てみた。これが任侠映画での高倉健初主演らしい。

前半は説明的な台詞での処理が多いかなと思ったけど高倉健の登場シーンには唸る。仏壇を中心にシンメトリックな軍服の背中からズームアウトし、聞き慣れた朴訥とした低い声、振り返る高倉健、中村錦之助を一瞥する三白眼、とスター性を感じさせてたまらない。
後半のかなりぎりぎりまでアクションらしきものはなく高倉健側の非暴力が貫かれていて、敵から不意打ち、または徹底して手を出さないというシーンが長門裕之と田村高廣に託されている。
Wikipediaによると任侠映画が嫌で主役を降りたという錦之助は二番手となり、高倉健との対比は月と太陽ではなく月と蜻蛉のような印象。錦之助の見せ場はハジキのみで、こういった二番手の見せ方ものちの任侠テンプレートになっていくらしい。

カリスマ性のある高倉健を中心としたホモソーシャルは割と健全で温かく感じられる。その傍らで藤純子や三田佳子の影は薄く、彼女たちが陵辱されるなど犠牲になることもなく安心して観ていられる。この二人の女性はあくまで清らかまたは献身的な立場で脇に控えるのみだけど、芸者役の南田洋子と長門裕之のシーンはいじましい。
高倉健は許嫁のような藤純子の存在を普通に受け入れており、高倉健に惚れていた南田洋子も長門裕之の意気地に惚れ直し三角関係にもならないが、長門裕之も高倉健も女性に対してほとんど不可触な立場をとっていてプラトニックである。
クライマックスで唐突に高倉健の汗にまみれて輝く上半身が演出される。ほかの狭客が総身彫りなのに対し、健さんは剥き身。
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