ノリオ

悲夢(ヒム)のノリオのレビュー・感想・評価

悲夢(ヒム)(2008年製作の映画)
3.4
キム・ギドクとオダギリジョーという組み合わせにドキドキしない人はいないだろう。



今作は、キム・ギドクが実際に見た夢がその着想のきっかけだったそうだ。

その夢とは
“車の助手席に乗った自分が、ある日自動車事故に遭遇するという夢”
彼の心には、“事故を起こしたのは自分だ”という思いが何故か残り続けたらしい。

その違和感と荘子の「胡蝶の夢」が結びつき、この作品を誕生させた。


別れた恋人を忘れられない男・ジン(オダギリジョー)はその恋人の夢を見る。別れた恋人を心から憎んでいる女・ラン(イ・ヨナン)は夢遊病となって、ジンが夢を見ている間憎い恋人と過ごす。


美術、衣装、ロケーション、は本当に美しく、物語に奥行きを感じさせる。
この辺の映像美は相変わらず素晴らしい。

ある種のファンタジーであるわけだが、驚かされるのはオダギリジョーが日本語で話していることであろう。

特に日本人という設定でもなく、ジンとランは通訳なしで互いの母国語で話し、問題なく意志の疎通をしている。
観ている側はまずこれに戸惑い、そこで躓くとまったく物語に入っていけず、置いてけぼりを食らうハメになる。


キム・ギドク本人は

“愛を描く上で、溢れ出るような感情表現は必須、そのためには自身がもっとも自由にあやつれる言語=母国語を用いることが大事なのだ”

と語っている。

じゃあ、日本人じゃなくて韓国人をキャスティングすれば? とツッコミたくなるが、そんなことは重々承知なんだろう。

前作の『ブレス』では言葉を喋れないという設定があったが、もはやキム・ギドクにとって言葉なんてものはどうでもいいことなんだと思う。

どれほどに言葉を並べても、人の真意なんてものは結局はわからず、言っている本人にとってもそれは同様だったりするわけである。
違う言語を話すという前提は、言語における意思疎通は不可能であるということである。
言語による相互理解では決して到達できない境地を、跳躍するためにこのような方法を取ったのではなかろうか。

ただ、仮にそうなのだとしても、日本語の台詞の言い回しに若干の違和感を感じる。
韓国語の台本を日本語に翻訳した感じが出ており、自分にはその部分が気になって仕方なかった。


それすらもキム・ギドクにとってはどうでもいいことなのかもしれないが、それでもその二重の違和感が残念でならない。
ノリオ

ノリオ