Foufou

コード・アンノウンのFoufouのレビュー・感想・評価

コード・アンノウン(2000年製作の映画)
2.0
原題《 code inconnu 》。知られざる掟、とでも訳しましょうか。いかなハネケ狂とて、この作品の感想を書くのはちょっと難儀します。

章ごとにカットなしのワンショットで綴られるんですね。一度暗転して、それから視点人物が変わる。場面は主に四つ。一つはパリ、一つは地方の農耕畜産地、一つはルーマニアあるいはその不法労働者の家族、そして一つがパリ郊外もしくはマリからの移民の家族。聾唖の子どもたちの施設を合わせれば五つだが、これは物語の声なき狂言回しといった役割に終始する。プロローグで、ジェスチャーゲームに興じる聾唖の子どもたちがその答えを手話で伝えていく。ジェスチャーした少女はことごとく否定。その正解を、私は「フランス」と読むが、どうか。

続くパリの場面が白眉。四つの話が並行することになる映画の冒頭で、各々主要人物たちが時間、場所においてたまさかの接点を持つ。主要人物のすべてを巻き込んでにわかに出来する騒擾の描き方は、本当に素晴らしい。日本でもありそうですもの。この人に対する今の態度はないだろう、と、見知らぬ誰かに咎められて、謝れ、と詰め寄られる。咎める側の心情も、咎められる側の心情もわかる。

何を言わんとしているかは明々白々。コソボもまたヨーロッパですものね。ルーマニアもしかり。そしてパリに流れ込む、マリから、東欧から、アラブからの移民たち。フランス人たちはじっと堪えているの図。ただ、フランソワって誰だよ? とか、この黒人のおばさん誰だよ? とか、「ハネケ流解釈は観客任せ」ではちょっと済まされない、杜撰なものを感じました。エピグラフに「それぞれの未完の旅」とかなんとかありましたけど、残念ながら言い訳めいて聞こえます。

長回しがもたらす緊張感の演出も熟練の域に入っています。地下鉄でビノシュがアラブ人の若者に絡まれるシーンもいい。コソボの悲惨を撮るジャーナリストが、その欺瞞を突きつけられるところも振るっている。

これまで観てきたハネケの映画はどれも単線的で、そこが評価されもすれば批判されもするのでしょうが、どうもリニアであるとの批判を受けての複数性の獲得に向けた、彼なりのレスポンスであり実験であったように思います。解釈に複数の答えを用意することと、映像に多くの意味が生起するという意味での複数性は全然違う。ロメールの映画なんてそれこそ解釈の余地なんてないんだけれど、とんでもなく豊かなので、その良さを伝えるのがなかなか難しい。ハネケの映画は、ストーリーを聞いた後で観ると、呆気ないくらいにストーリー通りなんで、映画としてどうなんだ??となる向きもあると思います。

でも、ハネケの、あの対象にじっくり迫っていく手法が、私にはたまらないんですね。いかにも単線的で、表象の豊かさを味わえるような映画を撮る人ではないけれど、なんか惹かれてしまう。そう、日常に潜む不穏を、映像が引き出してくれる。そして、我々の日常こそ多くの不穏な気配に取り囲まれていることに、気づかせてくれる。私にとってはまたとないシネアストなのです。

単線的な物語を四つ並行させることで、退屈さも四倍になったともいえる。うん? 今のどういう意味なん? と一々引っかかる映画は、ちょっと嫌いなんです。こちらの勉強不足のせいなら謙虚に受け留めもするんですけど。
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