カラン

泥の河のカランのレビュー・感想・評価

泥の河(1981年製作の映画)
5.0
昭和31年、大阪。運河のほとりの食堂を、少し歳を重ねた父(田村高廣)と、まだ若い母(藤田弓子)が営んでいる。終戦直後の闇市で父と母は出逢ったらしい。信雄は9歳だった。運河の対岸には宿船が停まっていた。9歳の喜一と、11歳の銀子、そして船乗りの夫を失くして船の上でしか生を感じられないが、生活のために客を取っているらしい母(加賀まりこ)がいる。


☆遠さと近さの弁証法① 見ないこと

この映画は子供の眼差しを捉える映画である。小さな子供は、それが何かを言えるわけではないが、見ている。あなたがなんでもいいが何かを見るとき、あなたはどんな体勢だろうか?あなたがよく見ようとすればするほど、あなたの身体は柔軟さを失い、限りなく静止に近づいていく。その時、あなたはあなたが見ているものとあなた自身の距離を詰める力を失くしてしまい、結局のところあなたにできるのは、ただ見つめているだけ、となるだろう。

見つめるというのは、ときに、孤独なのである。触るのではなく、見つめるには、距離が必要である。そして、よく見つめるには胸を痛める距離感を詰める力も権利もなくしてしまわなければならないので、まるで永遠的に孤独を耐え忍ばなければならない気分になる。

信雄をよく見てほしい。信雄は見つめている。だから、信雄の腕はだらりと下げられており、子供のタイポロジーから逸脱しかけているように描かれているのである。映画の長大なラストシーンで、見つめることをやめて、きっちゃん、きっちゃんと呼びかけ、走り出すまでは。運動が足りないのではない。運動は抑制される。たとえ子供であろうとも。この小栗康平の長編第1作は、断固として、見ることの悲喜交々(ひきこもごも)の描写に捧げられている。

信雄は見る。夜、父と母が窓辺で、自分の出生について語っているのを。父は、母は、自分が生まれたことをどう思っていたのだろう。信雄の眼差しに同一化したローアングルのカメラが、ふと、母との会話をやめた父が動き出し、自分をちらと見るのを映し出す。信雄の瞼は閉じられ、見ることをやめなければならない。父が闇の中、布団で寝たふりをする自分の上をそっとまたいでいく。カメラはもう一度、ローアングルで自分の眼差しのところにやって来る、寝ているふりをして目を閉じている信雄のポジションに。闇の中を父がスローモションで運動する。原光景に触れるエモーションを捉えたのだ。この劇中でおそらく唯一のスローモションは距離ゼロのありえない眼差しなのである。なぜなら、目を閉じているのだから。目を開いて見ると遠いのだ。だが、目を閉じて見ると、見るのをやめると、近い。

こういうのを天才の所業という。


☆距離イメージ

泥の河の川面や、トタンの畝を、几帳面なフォーカスで映し出す。こうしたある意味で汚くて安いものが輝き、非常に美的なイメージとして提示される。なぜこれらはかくも美しいのか?これらは私が今座っている工業製品としての公共のベンチと変わらない、凡庸で、どちらかというと美しないもののはずなのに。これらがかくも美しいのは、眼差しの悲喜交々の表象となっているからである。

この世界は美しいとか、汚らわしいとか、人は言う。これを素朴な唯物論と呼ぼうか。しかし、世界そのものは美しくも汚らわしくもない、美しいと感じる人がいたり、汚らわしいと感じる人がいるだけなのだ、と言う人もいる。これを素朴な観念論と呼ぼうか。この2つの世界観の間に河が流れており、その河を人は本当は生きており、小栗康平はそれをふんだんに映す。世界観と世界観の間にある人生の河は、奥深い生が営まれる領域なのだが、それは芸術を待っている。そこは汚いものが美しく、美しいものが物悲しく感じられる、本質的に美的な領域なのである。


☆遠さと近さの弁証法② 見られること

見ることは遠さを前提にする、というのが第一の局面。見ないことは近さに繋がるというのが第二の局面であるということを、☆弁証法①で書いた。瞼の裏の視覚である。第二の弁証法は、第一のものより厳しいものである。なぜなら眼差しの間主観的なありようがいっそうにクロースアップされるからだ。

信雄が運河の対岸を見るとき、それは遠い。その距離感を、その遠さを映像にする必要がある。泥の河、それは落ちたら川底の泥土やヘドロで死体を探し出すこともできないような汚い運河であるのだろうが、撮影された80年代には既になくなっていたのだという。小栗康平が自ら名古屋で探し出したのが、この『泥の河』のロケ地である。その泥の河の水面の輝きが映画の大半で目を悦ばせる。この目の快楽は、眼差しの孤独の裏面である。見ることは、必ず遠くを見ることであり、それは対象との距離を前提にする孤独な営為であるが、静かに光を網膜に受ける快楽を与える。繰り返すが、見ることは悲喜交々なのだ。

信雄は、見る子供である。だから、対岸の船に接近して、父の目を盗んで持ち出した数本のラムネというお土産を、気兼ねなく差し出すようなまねはできない。泥の河に捨ててしまう。見ることは孤独なのである。友達はその孤独を忘れさせてくれるのではないか。船にはきっちゃんがいるのではないか。

信雄が船に接近して、中にまで入るにはなかなかハードルが高いのだが、3回目だろうか、祭の帰りにきっちゃんに見せたいものがあると言われて、夜の船に入っていった。きっちゃんが船の中で窓を開け、水に垂らした網をあげると沢蟹が。ランプのオイルにつけてから窓辺に蟹を置いて、きっちゃんが火をつける。蟹はぽんっと発火して、生命を燃焼させ、船のヘリから、川底にぽちゃりと消えていく。

子供らしい遊びの餌食になるこの哀れな沢蟹たちは、子供には分からない《死》を教える、そういう勉強なのだ。子供は算数や理科を分からないように、死を分からない。

船のヘリで燃焼する蟹を追って信雄がヘリを伝うと、そこはきっちゃんの母が客を取っている部屋を覗きみる地点になる。男客が首に吸い付き悶えていた母がふと信雄を、見る。

見てはいけない母を見る信雄を、母が見る。見ていることを見られるのが第二の弁証法の帰結である。第一の弁証法では、父に見ていることを見られていない。それが今や、きっちゃんの母に見ている現場を見られる。

存在が落下していく消滅のイメージと、エロチックな眼差しの交錯のイメージを連続的に映して、次は信雄が呼びかけ、走りだすという運動をやっと導入してこの映画は終わる。天才の所業である。


☆落下イメージ

お父さんに連れられて京都に行った。ここは父と母と自分の家族関係の意味を変えてしまうかもしれない場所。なぜなら母の前に父が一緒にいた女の人のいる場所だから。京都の坂に雨が降り、石畳が濡れそぼる。輝かしい雨が降っていた。落下イメージである。

祭の夜、つまり、父が約束したのに帰ってこなかった夜、宿船できっちゃんが沢蟹に火をつけた。炎の閃光を放ちながら蟹が落下していく。

人生は何かを落とし続けて、その内にもう何も落とすものがなくなると、終わるのかもしれない。《終わり》が始まったことを信雄は感じて、宿船の奥で客を取る母の眼差しを探り当ててしまう。

人は必ず失わなければならない。失って初めて求めることができる。この狂おしい仕組みに信雄は走る。少年だから。歳をとったら、雨が降るのを見るといい。それは、狂おしさや失くしたものへの固執を穏やかにしてくれるだろう。落下イメージには、欲望を開始させ煽るものと、生の条件としての喪失を促すものがあるのだろう。後者は、焦らずに失えばいいのだと、慰めてくれる、そんなイメージだ。



セル用のDVD。『死の棘』と同じ駒草出版のもの。『死の棘』でちょっと足りないと思った画質は『泥の河』は期待していなかった分だけ、驚いた。同じく前田英樹氏との対談の文章が付いている。これも良い。
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