なかなか形容し難い映画
「血」から≒自ら体内に流れる映画史から分離または退避しようと試みる葛藤が私には感じた。
常人は2作目でこれは撮れないでしょ。
ポルトガルの地を離れたコスタは血で述べたような点照明からも逃れようと太陽光≒大地に降り注ぐ光を彼は見出した。
ストロンボリと比べる方も多いが全く自然の脅威について無関心な振る舞いをしているのは趣旨がそこではないことがはっきり分かる。
あと寝る人間が以降、ペドロコスタの映画ではよく登場する。決して、焦らない、歩くことがこれほど困難なことかは以降の作品でもよく出てくる。
人はこれをペドロコスタが好きなジャック・ターナーと比べたりするけどその振る舞いも恐らく彼の趣旨と違う
エディット・スコブが凄まじい印象を放つ。
多少、素養のあるものならジョルジュ・フランジュを思い出し、ペドロ・コスタの隠しきれない映画史の引用を引き合いに出すと思われるがきっとそれも彼の趣旨と違う気がする。
またショットも大きく変わった。
移動ショットが少ない。
人との距離間が明らかに近い
これは血のキャメラマン、マルティンシェーファーが亡くなってしまい、後期ブレッソンや後のオリヴェイラを支えたエマニュエルマシュエルと変わったことも多少影響しているのだろう
それがペドロ・コスタなのか彼の決定なのかどこからどこまでがショットの意思決定プロセスに影響を及ぼしていたのかの明確な答えは分からない
それにしても、他者からの"輸血"でもしてしまったと思うような1作品目の作家とは同じと思えない、ただただ驚嘆する。
ストーリーは確かに分からないが、知らない土地にイネスデメディレスが歩き、見、聞き、その土地との異質感の差異を作風の中心に持ってきているところは、それこそロッセリーニに通ずるものがある。
追記、映像の特典では顔のない眼と山、バルテュスの絵、顔のない眼と出演者名の横顔のスクラップブック、あとロバート・ジョンソンとか、シュールレアリズムの絵、カルティエブレッソンの写真、ジョンジェット、ミイラ、ムルナウ、グリフィス逆にここからイメージを作っていくとはPUNKだな