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サッド ヴァケイションのharunomaのレビュー・感想・評価

サッド ヴァケイション(2007年製作の映画)
5.0
クリュニーの兎

河や海に入る時、人はその水の出所をより分け選り好みして自らを浸すわけにはいかない。水に入れば、時に臭い水や汚れた水、生ぬるい水、冷たい水を入れかわり立ちかわり感じながら、どれも分け隔てなく私を包み、それを回避することはできない。ただ水に包まれている快楽を五感によって貪るばかりだ。そしてそれを断ち切って陸に戻る時、私はその水に入る前の私と違っているだろう。何故ならその水に入る前の私はその水の様々な有り様について何も知らなかったのだし、そのことがその後の私に及ぼすかもしれない影響に関して考えることもなかったのだから。

ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。

テセウスの船 名前、記憶、時間

トニー・スコット 2012年8月19日 天国篇
露悪アート、ショットなし企業 A24 2012年8月20日に設立

「これを見ろ」と賢者は呟く

青山真治

 いつもながら「これを見ろ」としか言いはしない。

 かつてならそれは、その素性を知る者たちによって究極の教育的行為だろうとへたに納得されたり、あるいはひどい話、神がかり行者の宗教的発言としてよそよそしく流されたりもしただろうが、いまや時代は変わった。映画は終わった。産業の要請によって二十世紀の「映画」はお役御免となった。決定的な事件があった。二〇一二年の八月、イギリス生まれのひとりの映画作家がロサンゼルスの橋から水中へ落ちた。冗談のようなその事件以降、事実上二十世紀の「映画」は消えて無くなったのだ。それはたしかなことだが、それでもなおストリートにはかつての「映画」のかっこよさに気づいてその匂いに近づこうとする若者が後を絶たないこともまたたしからしい。ゆえにこのストリートに賢者がいたってかまうまい。いわゆる「ストリートワイズ」と呼ばれる存在だ。この賢者はただ「これを見ろ」とだけ呟いて指さす。その「これ」とは作品のことではない。ただ画面に描かれる、とあるショット、あるいはその連鎖による断片的な時間のことだ。そこにはほとんど匿名的と言ってよい運動と存在と空間があるばかりだ。賢者はしかし「これが映画だ」とさえ言わない。ただ「これを見ろ」とだけ。若者たちによってそこに秘められた森の奥の泉にも似た何かを見つけられなければ、これは無償の捨て台詞にすぎない。それでも孤独に呟き続ける。賢者はそれしかしようとしない。終わってしまった「映画」をそれでもなお生き残らせようとする唯一の秘術? いや、そんな大袈裟なものではない。ただ見てしまったことを可能な限り正確に再現しようとする孤独な試み。そこに寄り添うべき固有名、作家の存在が付け加えられたとしてもそれもたんなる偶然に過ぎない。のみならず、賢者は自らが見たことのないショットにさえ「これを見ろ」と言う。己の幻視するそれをお前たちも見ろ、と。それを見ることのできない我々は犯罪者であって、その罪を逃れることはできない、せめてそれを幻視することで己の欲望を喚起し、罪の償い方を探せ、と。

 ニヒリズムだろうか? だとしてもそれは誰彼ともなくほどよく纏いえるようなそれではありえない。ならば注意深く聞き咀嚼しその真意を言い当てるべく準備しなければなるまいと考えるべきだろう。

 たとえば賢者が、なぜ『カリフォルニア・ドールズ』のアルドリッチ以前には「ごく自然にやってのけていた」「小気味よい」「アクションつなぎ」が「世界から姿を消してしまっ」たのか、それは「二十一世紀の『巨匠』たちの怠慢だろうか。それとも、そこには、なにがしかの歴史的な必然があるのだろうか」と問うとき、それに対してすぐさま答えられる用意のある者などいまい。なおかつ、その答えがどんなに「反道徳的」であろうとなかろうと賢者は黙して語らない。ただ「これを見よ」とだけ。(ちなみにここで語られる「アクションつなぎ」はコツさえつかめばいまも、ハリウッドでなくともここでも可能な方法だ。だからなぜ? 私見ではどうも教育部門がそういう技法を「時代遅れ」と切り捨てている気もするが。小説でもよく聞く、ある技法を「時代遅れ」とする商業的風潮……)

 ここでの問題はそのことに留まらない。二十一世紀において映画は、「アメリカ映画」かそれとも「たんなる映画」かの二者択一を迫られる、という事態に対応しなくてはならない。この問いを提示する賢者は、しかしそれにも答えを発しない。ただ映画の「フィクション的な現実」と言い募るばかりだ。個々の映画にしか定着しえない「フィクション的な現実」がいかなるものであるか、ここで説明する余地はもはやないが、それを須らく実現しているのが現在ウェス・アンダーソンだけであることは筆者も頷くところである。

 この「フィクション的な現実」という問題とうまく結び合うかどうか、もう一つの事案がある。それは「とんでもない」のことで、言い換えれば現JLG事案ということになるが、非常に要約した話をするとある章に「とんでもない」という文字の羅列を見て『東京物語』の原節子を想起しない者はいないだろうし、それに対置される「どちらでも、かまわない」という台詞が『駅馬車』におけるクレア・トレバーの(「フィクション的な現実」に則して言えば、原の台詞に匹敵する、まさに命懸けの)それであることに誰もが気づくところだろう。

 この議論において、ゴダールも蓮實も小津とフォードが好きだから、という意見が出たとして、この「とんでもない」と「どちらでも、かまわない」という答えが同時に返ってきたとしたら、ひとはどんなリアクションができるだろうか。この二つの台詞は、少なくとも『さらば、愛の言葉よ』における「フィクション的な現実」のさなかでは、とりあえずの男性・女性の区別を持ってはいた。だが言うまでもなく映像に性差はない。そのことはゴダールも熟知しているだろう。そしてここでもやはり性差のない言葉が浮遊する空間での議論が始まっているわけだ。

 つまり男たちよ、笑ってる場合は終わったのだ、と本書は断言する。七〇年代初頭から始まったたった一人の運動は八〇年代、九〇年代と次々に亜流を生んでは巨大な波を送り続けた。それを数十年経ったこの期に及んでたんなる物語と決めつけるのはあまりにつまらないとは誰もがわかっている。

 勝敗ではない。いま誰が美しいか、だ。
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