佐藤

ボルケーノの佐藤のネタバレレビュー・内容・結末

ボルケーノ(1997年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

 クロースアップが多く周囲の状況は表情から伝わってくる情報から想像するしかないので、緊張感が出る。『唐山大地震』もそうだったが、細部にフォーカスして全体像をあえて見せないことで、何が起きてるのか分からない登場人物と同じ状況に置かれ没入感がより高まる。しかし、時々挿入される地震計のカットはもちろん「観客」しか観ておらず、登場人物は把握していない。また、レイチェルが裂け目に落ちた時に一瞬砂漠、そして大停電する街を写したのも同じ効果だろう。「これからひどいことが起きるぞ」というメタなメッセージを発している。そして、「観客」はそのメッセージを強情なDWPの親父たちが工事を止めようとしない行為からも読み取る。ここで、この映画を観る者は主人公に移入した視点を持つと同時に、映画を読み解く「観客」の視点という二つの役割を引き受けている。
 『唐山大地震』がドキュメンタリー+人情物語みたいな要素の組み合わせだとしたら、『ボルケーノ』はドキュメンタリー+サスペンス(ホラー?)だと思う。『ボルケーノ』の暗いトンネルでのシークエンス(登場人物の進行方向を写し、切り返してやや下から見上げる形で登場人物を写し、というのを繰り返しつつ、不安を煽るBGMが流れる)はホラーやサスペンスでの典型的な手法を用いている。
 記者の男「大自然の力に彼らは打ち勝ったのです。」エミー「人間の思い上がりに天罰が下ったのよ」という発言から明らかなように、自然と人間の対立、自然からの「しっぺ返し」が強調されている。環境問題には詳しくないので何とも言えないが、90年代は気候変動や地球温暖化がグローバルな問題として認識された年代らしいので時流に合わせたテーマだったのかもしれない。
 黒人差別に関するメッセージも結構露骨。黒人に対して明らかに差別的な白人警官(Aと書く)と好意的な(とまではいかなくとも明らかに敵意を見せる訳ではない)白人警官(Bと書く)が出てくる。ウィルシャー通りが大変なことになってる時はAも黒人と協力したけど、収束したあとはまた元どおりになり、消防車に乗っていく黒人に対して肯定とも否定ともとれない態度をとる(肯定なんかな?いい感じのBGM流れてたし)。あと最後、皆が灰に塗れる場面でのトミーの「みんな、同じ顔だ」。まあ、黒人も白人もないよってことなんでしょう。でもそのあと、結局雨に流されてみんなの素の肌の色は露わになるけど。(追記:読みすぎかも。少なくとも97年の意図では皮肉のニュアンスはなかったとするのが妥当。)
 ジェンダー観について。二人の女性の科学者(レイチェル、エミー)が登場する。以下のような会話がある。
 エミー「(マークについて)マッチョで自信家、他人の意見を聞かないタイプ」
 レイチェル「でも好きなのね?」
 エミーは何も言わずにやりとする。
結局、「女性」が守ってもらう立場、というか役割を期待されてる描写になっていて、しかもそれが「白人」で「女性」の「科学者」という恐らく「女性」の中でも特権的な立場にあってさえもこうなってしまうのは、どこまでも「女性」を飼い殺しにしたいんだなあ、というか、結局「女性」という自らを脅かさない枠組みにおいてしか主体性を認めない姿勢の現れじゃないか。そして、「俺たちは彼女らの主体性を認めているのに一体何が不満なんだ?」と言うだろう。(まあ、97年の作品を2020年の倫理観で評価するのはフェアではないんだけれども。)
佐藤

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