嵯峨

ラリー・フリントの嵯峨のネタバレレビュー・内容・結末

ラリー・フリント(1996年製作の映画)
4.9

このレビューはネタバレを含みます

超社会派映画だった。考えさせられる・・・と言っちゃうとかなり陳腐になっちゃうけど本当に考えさせられる映画でした。

個人的にはこの「ラリー・フリント」って男、あんま好きじゃないしやっぱ不愉快に感じる。特に中盤以降・・・というより撃たれてからの彼は噴飯ものに不愉快。裁判所での暴走とか「何してんだ・・・」とおふざけがすぎるというかwユーモアが特にないクラスの不良連中が暴れてる感じ?w
けれども、序盤で俺たちのエドワード・ノートンが言ってた「不愉快なものに壁を作ってしまうと自由でなくなる」というものがエドワード・ノートン演じる弁護士も観客も問われる作りになってるんじゃないかなあと思う。感情じゃなくて理性に愬える感じですかね、すげえ不愉快な奴なんだけど彼の権利は認められなければならない・・・ってことに耐えられますか?って感じで。つまり彼を本当に芯があってとても誠実な被害者として描くことってまさに最初の懲役25年を命じた陪審員と同じことをしてしまうことになっちゃうんすよね。いや、しょうもないしどうなんだと思うけどそれでも彼を認めることが自由を保障する代価なんだなと思った。

コートニー・ラブってニルヴァーナのファンの僕からするとカート・コバーンの嫁ってイメージしかなくて、女優として演技してるのを初めて見たんだけどめっちゃ良かった。反権力の象徴としてのパンクを文字通り体現してる感じとかとても良かった。昨日見た「クルエラ」も相当パンクだったけど、パンクさ加減で言ったらコートニー・ラブには勝てんなと思った。あとすげえ目が綺麗なんすよね、彼女。ある意味この映画における彼女は、ラリー・フリントの状況を表してて、どんどん明らかに堕ちてく姿ってのは権力による規制を表現してるのかなと思った。そしてさらにそんな堕落しっぱなしのラリー・フリントの五分の魂部分を表してたりしてて、それで再起させるという役割でもあったり。最後の死亡シーン、まさにポルノのような姿になっててしかしどこか神聖的だったり、ラリー・フリントにとっての五分の魂部分が表現されてるように思える。

ミロス・フォアマンっていう監督は、「カッコーの巣の上」でも「アマデウス」でも割と「社会的規範から外れた人間、不愉快な人間を受け入れられるか、自由を得られるか、認められるか」ってのを描いてて今作はまさにそれが本題そのものになってて作家性ってのを触れた気がします。
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