カラン

蒲田行進曲のカランのレビュー・感想・評価

蒲田行進曲(1982年製作の映画)
4.0
とある映画撮影所つきの映画スターの銀四郎(風間杜夫)と、その恋人で10年前に流行った映画女優の小夏(松坂慶子)と、銀四郎の取巻きで大部屋役者のヤス(平田満)たちの、映画撮影所でのドタバタ。


☆蒲田行進曲

「虹の都 光の港 キネマの天地
花の姿 春の匂い あふるる処
カメラの眼に映る 仮染の恋にさえ
青春もゆる 生命はおどる キネマの天地」

これはルドルフ・フリムルというチェコの人の作ったオペレッタの中の楽曲に堀内敬三がつけた日本語歌詞の最初の部分である。松竹蒲田撮影所が1929年の『親父とその子』という映画で使用するためであった。レコードが先行で販売されてヒットした。蒲田撮影所でも、学校歌や工場歌ののりで、撮影所歌として採用されたようだ。現在でもJR蒲田駅で発車メロディーで使われている。

本作ではこの曲を松坂慶子と風間杜夫と平田満が歌唱しているようだ。このとってつけた事実以外には本作と蒲田撮影所は関係がない。だからこの映画の内容と『蒲田行進曲』というタイトルの関係も、主題歌であるという以上のものではない。本作は松竹が配給しており、蒲田行進曲という曲は松竹のアイデンティティの一部であるが、本作の舞台は太秦にある東映の京都撮影所である。なぜ松竹と東映が結びつくかと言えば、間に角川春樹がいるからである。しかし、こうしたことはいかにも映画的な話ではない。


☆太秦-行進曲と、演劇的ラストショット

松竹蒲田撮影所というのが1920年から1936年にかけてあった。今でも蒲田等の大田区には金属加工の職人がいて町工場が多数ある。当時、これの騒音が激しかったようで、松竹は蒲田から鎌倉に移転して、大船撮影所を新しく作ったのだが、短かった蒲田の撮影所で実に1200もの映画作品が制作されたのだという。

その蒲田をタイトルに冠した本作は松竹が映画化権を得たが、映画の舞台は京都は太秦(うずまさ)にある東映京都撮影所であり、そこのスター俳優の銀ちゃん、その女の小夏、そして大部屋役者のヤスの物語である。時代も戦前ではない。

曲を除けば、なぜ蒲田なのかは宙に浮いている。原作は読んでいないが、映画を観るに蒲田も松竹も関係ない。もちろん「太秦行進曲」が蒲田に比してキャッチーでないのは分かる。本作のラストシーンは『脳内ニューヨーク』(2008)のようなメタレベルを露出するものである。本作の映画撮影は演劇の舞台上のことであったことが明かされる。映画撮影の演劇であるので、この映画の舞台は蒲田松竹の撮影所なのだと回収しきれない。せめて映画として終わらせれば、東映の撮影所での撮影風景を、松竹お得意のセット撮影で再現してみたという、映画的な価値はないが、一応の収まりをつけることができていたのだ。

『8 1/2』という映画のタイトルは究極的には意味不明である。『ゴドーを待ちながら』という戯曲はゴドーさんとは誰のことなのかを与えるつもりは作家にはないので戯曲の全てが宙吊りになる。これらが異化効果(distancing effect)を発揮しているのは間違いないだろうが、『蒲田行進曲』の場合はそのメリットはあまりないように思える。

結局のところ、本作はベルイマンの『ペルソナ』(1966)の逆をいく。『ペルソナ』は「エレクトラ」という舞台で失語症になった女優を追跡しながら、シネマヴェリテ的に、映写機やフィルムやクレーンにマウントされた撮影用のカメラが映し出される。つまり、演劇から映画へ向かうのである。

『蒲田行進曲』も蟹江敬三が映画監督としてカメラを搭載したクレーンに乗って登場する。なぜなら東映京都撮影所の映画人たちの物語だからである。それがラストシーンでは演劇の舞台に着地しようとするがために、映画でもなく(タイトルへの裏切り)、演劇でもなく(ラストシーンへの裏切り)なるのである。映画と舞台演劇の区別を無視して、つかこうへい氏が自分の力量ではコントロールし切れない脚本にしてしまっているのが、本作の失敗であろう。

映画に向かって映画を超越させるのは、『ペルソナ』やジャック・リヴェットの『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(1974)のような革新的な実験映画だけではない。ハル・アシュビーの『チャンス』(1979)はクレジットロールで、アッバス・キアロスタミの『桜桃の味』(1997)はラストで、撮影現場を露出させることで生命の永遠性を映像化したのである。


☆映画愛

私の見立てでは、つかこうへい氏による本作の映画用の脚本は失敗である。しかし、出来上がった映画は部分的な成功を収めている。興行的なヒットもそうだが、リメイクや続編の映像化が複数作られたのは、本作が映画人たちに愛されたからだろう。薄い記憶だが、中野裕之の『サムライフィクション』だったか『ステレオフューチャー』も本作の延長線上にあるのかもしれない。

本作は映画を愛する人には、きっと気持ちいいのだろう。自分が孕ませた女を大部屋役者の付き人に嫁がせるくせに、目の前でやるし、その濡れ場に遠慮はない。付き人はといえば階段落ちの撮影で死のうとする。しかし、女は2人の男を愛する。めちゃくちゃなのだが、全ては映画愛によってなし崩しになる。このめちゃくちゃのなし崩しを、映画愛のエネルギーの大きさなのだと受け止めるのは、上で述べたような事情で難しいのだが、きっとそうなのだろうと信じたい気持ちはある。

松坂慶子は好きな女優だが、彼女単体としてならば、今まで観たなかでは最も魅力的だった。

撮影現場のシーンでは、真田広之に薙刀を振るわせ、千葉真一にはマシンガンを乱射させる。そして、例の階段落ちのシーンでは転がり落ちる平田満にフォーカスがいくはずなのに、最後にきて銀ちゃんが異常に格好よくなるアンバランスさである。汗が浮いているが顔面蒼白の風間杜夫があの声で、役者たちに、映画人たちに、夢を実現したいあなたに、呼びかける。映画を愛する人で胸熱にならないのは、無理だろう。

そうだ。

上がってこい。

上がってこいよ。




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