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EUREKA ユリイカのharunomaのレビュー・感想・評価

EUREKA ユリイカ(2000年製作の映画)
5.0
おそらく7回目か上映で観るのは。
初めてみてから21年経っている。それは長いのか短いのか。
アニキ・ボボ Aniki Bóbó (1942年)
春の劇 Acto da Primavera(1963年)
とほとんど同じ月日だが、見始めて、もう冒頭のショットから、あるいはあの活劇的な無言で重低音だらけの夏の動きからして、何も変わっていない。
あたりまえだ。映画は現実を記録した一形態なのだから。懐かしさなど微塵もない再会、それはやはり制作した当の本人が鬼籍に入るとしても変わらず、そう、例え原節子は亡くなったとしても、作品はほぼ永遠に、目の前に息づいている。
3ヶ月掛かったというニュープリントは、だから何の衒いもなく、いやむしろ記憶の中では当時観た新文芸坐のプリントの方が、闇を照らし出していたと。ショット以前の生とは。
劇場に斉藤陽一郎と七字さんがいた。
完璧とも思えたものが改めて何かが足りないと思えた。見直し過ぎてもいるし、もはや、それは監督の追悼による上映(『月の砂漠』『こおろぎ』でもよかったはずだ、あるいは『アワーミュージック』で)でもあるのだが、デンゼル・ワシントンとイーストウッドがいない、ジャン・ルノワールも最期には。なかんずく原節子のような女優。クロマティックB&Wとはリアリズムそのもののフィクション。

沢井真(青山の名前の一文字がある)の身体性、ランプシェードの灯り、虫の鳴き声、ガレルとも違うユリイカの夜、が反復的に現実に想起される、それはすぐに心地好いものではないのかもしれないが、それでも沢井の身振りの息づかいは歴代に残っている記憶の実感がある、それを人は俳優と呼ぶ。
直樹の傷、梢のつかみ得ない透明な観念、反復し模倣する後ろ姿と眼差しの正面、白い樹液が溢れ「見えるか梢、海じゃ」と直樹が語りかける時、背の高い草の原っぱを映し出すのは、窓を動かし、その草原の反映を、自身は窓の奥から見つめつつ、光の反射が、海の肌理を出現させるごとに自然と物の反射と透過をする窓ガラスを動かすのは、直樹ではなく、梢だった。そう、最後に海を見せてくれと言っていた直樹は、もう中盤からすでに、眼差しを持つ者ではなく、ランプシェードを動かし、応答のノックのようにその灯りを点滅させていた沢井でもなく、やはり反映する窓そのものを動かしてしまう梢(白いカーテンが風で揺れ動くそのすぐ後の後ろ姿のショットは素晴らしいし、それはやはり窓を開け風が入ってくる)は、すでに上映時間1時間30分の段階(むしろ最初と最後も梢の正面とバック、かつ最後は振り返り)からやはり。トラウマ的出来事からの回復ではなく、喪に服すまでの旅路、声を取り戻す。死を伴う暴力とは何か。寝ても覚めてもは、わざわざ海の水平線の切り返しが説明的良心のようにあるが、海を見せてくれと言っていた直樹の言葉とはうらはらに、海に入った梢の視点ショット、返しはあるはずがない。海の先を見て、海の中に入り、海とともにある、あるいはアワーミュージックのオルガのラストショットと。

他人のためだけに生きることはできるとやろか。
誰の記憶なのだろうか。ごめんなと役所広司は咽び泣いていたが、現前しない他者=現前でしかない他者を前に、ほとんど愛を超えた不可能な問いを、言葉は言葉として目の前にある。生きることは、ほとんど言葉なしに(テレパシーがそこに音としてささやかに交歓されていても)寄り添い、ただ旅をするだけだ。言葉の回復がトラウマ的出来事との和解ではない、それは言葉ではなく、名を呼ぶこと、そして帰ること。帰ろうと。
生きろとは言わん。ばってん死なんでくれ。血の匂いと血塗られた頬、ひとつの顔を前に、それもただ生き残ってしまった子を前に、一体この言葉は、政治にも社会共同体の中にも完全にない。ただ映画だけが、有用な時の流れとまったく違う無用なるもの、歴史に記されない無名の領域があり、有用な意識と知覚からは忘れられても、なお、ある-こと。それを意義あることとする瞬間に、それは有用に絡めとられる。だから言葉にしないことで、それはかろうじて、ある。

Film arks
「他人のためだけに生きるっちゅうとはできるとやろか」
(沢井真)
言葉の力。思えばトニーの主題とはいつもこの言葉だったように思う、そしてそれはあまりにもヴェイユ的であり、悪く言えば超越的であり、現実的には理解しえないその生のあり方は、結果論でしかないが、彼が飛ぶ人(空撮も)であったのに十分な説得すらあり、亡き後にあのscott freeのアニメーションを見るにつけ、黒いマントの鳥人間はトニー自身にしか見えない。果たして残された私たちは、背を向け立ち去る瞬間に始めてむせび泣いた国生さゆりなのか。振り向くことももうできないのか。

16歳の時に封切りではないが初めて『ユリイカ』を新文芸坐で観て、映画を意識的に観始めた。それからオールナイトも含めて5回以上は映画館で観ているが、DVDでは見直せない。小津は60歳だったが溝口は58歳。それも当時の話だ。それよりも若く、偉大な映画監督が、もはや早すぎる夭折とすら。相米慎二。映画を作りながら批評をしていた。映画制作そのものが歴史の視座であった。彼はアルチュール・ランボーのような男だ。
たむらまさき、青山真治。世界史上でも稀有でしかない才能の二人が、シネマの本当の原初を自然主義勢の物語から開放していた。「存在の問い」とショット、あくまでも35mmフィルムとして、それは刻まれ、異例の小津(『東京公園』『東京暮色』)ですらRedとしてそこには息づいていた。
トニー・スコットの死からちょうど10年後に。思えばトップ・ガンもまた10年後の上映になるこの年。57とするなら、黒沢なら2012、贖罪、リアルの年だ、そう考えると何か、その後のゾンビ(身売り)的なシネマ黒沢の頽落(『岸辺の旅』だけは最高傑作)デジタルシネマ(彼自身による三度目の死)もあり、納得もしてしまうが、それにしても。

青山真治の訃報は、6月17日の正午に知った。
亡くなったことを知らずに3ヶ月間も普通に過ごしていたのは、どこぞの小説か映画のモノローグのようでもあるが、遅れてきた空白に何の実感も伴わないが、ゴールデンアワーの白昼夢の、街の層とバッハ(3/21/1685)の無伴奏のサラバンドは、その喧騒に溶け合い、ようやく見ること、はできる。濱口は見ないだろう、彼の目は悪いから。
ゴダールか蓮實、イーストウッドは亡くなるだろう、
そうすれば追悼はあったかも知れない。
オリヴェイラですら追悼などない。決して誰一人、
映画において喪に服すことなどできない。
追悼などしていられるか。空にも住まない。
空のショットだけが持続である。人間は立派である。
小津安二郎、原節子、厚田雄春

20/21世紀オールタイムベスト アデュー(Adieu)
青山真治、たむらまさき、トニー・スコットの後に、生き残ること。われわれのあいだで
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