Jeffrey

バッファロー’66のJeffreyのレビュー・感想・評価

バッファロー’66(1998年製作の映画)
3.8
「バッファロー'66」

〜最初に一言、メランコリックな名曲たちが生み出す耳に心地の良い音楽13曲を始めとし、ギャロ・アート炸裂のナルシストワールドであり、66回笑い66回驚きに満ちた秀作である。このベクトル全てがクールであり、とことん2人のやりとりに目を奪われる。ハッピーエンド嫌いなあなたもこの作品のハッピーエンドに大満足すること間違いない。デヴィット・リンチ的な奇妙さを醸し出し、すべて同時にスパークさせ、大胆不適に心に残る様々なカット割り、想像力に溢れ挑発的でもあり、素晴らしいフィルムメーキングだ。正に20世紀の映画の中のベストカップルである〜

冒頭、雪降る寒村とした街。とある刑務所、5年の刑期が経ち、釈放された男。母親との電話、嘘、通りがかりの女を拉致し、妻のふりをさせる。孤独な心、純粋さ、優しさ、行為、復讐。今、2人の行方は…本作はヴィンセント・ギャロが監督、脚本、音楽、主演を務め、アリソン・バグノールと脚本を執筆した作品で、この度BDで久々に鑑賞したが面白い。この作品はミニシアターで大ヒットとして、ー部熱狂的カルトファンが登場し、小津安二郎にインスパイアされたと言う固定ショットや淡い色グレーなどを使った演出が評論家から高く評価された作品で、若き日のクリスティーナ・リッチがまた独特の魅力を放っている。なにげにミッキー・ロークまで出演している。ギャロと言えばこよなく小津安二郎の作品を愛して止まない人物として有名だが、特に彼は小津安二郎の「秋日和」を見て人生が変わった位、強烈なインパクトを与えてくれた。アジア映画、日本映画って言うジャンルより、小津は僕にとって1つのジャンルなんだと言わしめるほど彼は日本映画好きである事はここで言っておきたい。

確か当時25歳だった浅野忠信がギャロに会いに行っていて2人で対談していたと思われる。記憶違いだったら申し訳ないが、2人とも確かひげ面で髪の毛がボサボサでそれがすごく印象的だったのとすごく似ていた(笑)。しかもギャロはかなりのシネフィルで(この作品を見ればどれほど彼が映画好きかわかる) 7000本の映画ビデオを持っていると公言し、繰り返し同じ映画を見ているほどインスパイアされるとの事だ。確か2人の対談で、日本に来ても、違うものを見ようかなとレンタルビデオ屋に寄ったところ、やっぱり同じものを借りてしまう変な癖があると言っていた。この時次回作は日本で撮影して、ぜひとも浅野忠信を出演させたいと彼は言っていたが、結局彼は2003年に「ブラウン・バニー」と言う作品を撮ってから2010年まで監督をしておらず、結局浅野忠信との共演は見れなかった。

ちなみに「バファロー66」の66と言う数字にまつわるうんちくを話すと、66年には例えば10月はサンフランシスコ、ゴールデンゲートパークではラブアンドピースを合言葉に数千人の人々が集会を開いた時期で、長髪にTシャツ、ジーンズ姿と言う今じゃぁありきたりなスタイルがもてはやされていた時代ではなく、反抗的なシンボルとされていた時期であり、ベトナム戦争が真っ只中の時代である。また66年と言えばロナルド・レーガンがカリフォルニア州知事に選出された時代でもあり後に81年に合衆国大統領になるのである。また66円年と言えばバスケットや野球と同じく、アメリカで最もポピュラーなスポーツであるアメフトで、スーパーボール(National Football League = NFL)主催でアメフト王座決定戦があり、記念すべき第一回が行われたのも66年のロサンゼルスだった。

そして日本にも大きな関わりがある66と言う数字だとすると、ビートルズがやってきたのも66年である。これは初来日であり、日本武道館における5回の公演では、感激のあまり失神者続出と言うニュースは誰しもが知っているだろう(マイケル・ジャクソンの時はアメリカではこのような現象が起きた)そして電気製品が庶民の憧れだった時代、洗濯機、冷蔵庫、モノクロテレビが3種の神器と呼ばれていた時代が1953年だとしたら、66年はカー、クーラー、カラーテレビの登場で3C時代と言われ、家庭用の電子レンジが初めて売られたのも66年である。ちなみにこの年には日産サニー、トヨタカローラと言うロングセラーファミリーカーが発売されマイカー元年とも言われている。そしてまだまだ終わらない歴史、中国では毛沢東による文化大革命が始まった時期でもある。若者たちのバイブルである毛沢東語録、アンチブルジョワジー、資本主義徹底排除をスローガンに文化遺産など徹底的に破壊し、多くの人が追放された時代でもある。後にこの暗黒時代は10年持つことになるのだ。

さらに掘り下げるとミニ旋風が起こったらもうこの時代だろう。イギリスからの旋風は、決してビートルズだけではない。ロンドンのデザイナー、マリー・クワントが発表した世界中に広まったスタイルでミニスカートは、日本では翌年モデルのツィッギー来日して大ブレイクしたのも記憶に残るだろう。ボーイズファッションでは、モッズスタイルであり、伝統と格式を重んじるイギリスで、堅苦しいのはやめにしようと言うわけで誕生したこのスタイルは、お手本にするなら映画「さらば青春の光」以外には考えられない。さらにエポックメイキングな広告までが登場したのも66年の夏の頃だ。それは資生堂化粧品のキャンペーンテーマは太陽に愛されよう…。日焼けした肌を自慢するインパクトのある広告なんて、当時エネルギッシュに経済成長していた日本を象徴していたものかもしれない。ポスター貼った先から盗まれたと言う伝説の広告をきっかけに、広告全体が知るから楽しむへと大きく変わっていったのもこの頃だろう。

さらに残念な事件も起きた…というか事故であるが、日本の66年は飛行機事故が多かった。原因は羽田空港が手狭になっていたせい、と言うことで新しい国際空港を早く作ろうと7月、千葉県成田市に決定。翌年から三里塚闘争が始まり、開港にこぎつけたのが78年だったこともこの時代を生きる人物なら誰しもが知っている事だろう。さらに66年と言えば第38回アカデミー賞で「サウンド・オブ・ミュージック」が作品賞、監督賞の5部門受賞した時期である。またこの年日本で公開された外国映画には、「市民ケーン」「男と女」「ドクトルジバコ」「戦争と平和」「ミクロの決死圏」などがある。そしてテレビでは淀川さんが解説する日曜洋画劇場が始まったのもこの年である。こうしたシネフィル的な知識だが、この映画を見る前に知っていると色々と楽しめるのではないだろうか。しかも66年と言えば大学教授、麻薬所持で逮捕されていたと言う話もあったそうだ。確かハーバード大学心理教授の名前は忘れたが、その人物が平和主義を唱えるとともに、マリファナやLSDを使った実験を学生とともに大学の研究所で行っていたそうだ。麻薬でトリップ、そして宗教的瞑想をしたこの大学教授は、サイケデリックの教祖様と崇められていたそうだ。おっと、いきなり余談話になってしまったが物語を説明していきたいと思う。



さて、物語は1966人、ビリー・ブラウン、ニューヨーク州バファローに生まれる。その年は、地元のフットボールチーム、バッファローが優勝した最後の年でもあった。バファロー郊外の刑務所。ビリー・ブラウンは5年の刑期を終え晴れて自由の身となった。しかし、寒空の下、彼は刑務所前のバス停のベンチから全く動こうとしない。やっと立ち上がった彼は、何を思ったか再び刑務所の門を叩く。トイレ、貸してくれと思い余った顔のビリー。一回刑務所から出たら、中には戻れと冷たく突き放す看守。ビリーの人生はいつもこんな感じ。子供の頃から、運命のネジがずれていて歯車がうまく回らない。皮肉にもブルーバード(幸せの青い鳥)と書かれたバスに乗り街に出た彼は、両親の元へ電話をする。

この5年の空白は結婚して、政府の仕事で遠くへ行っていたと馬鹿げた嘘をつき、少し頭が弱いけれどビリーのたった1人の友人グーンの手を借りて、ムショ暮らしをカモフラージュしていた。しかし、アメフトの試合の中断を見ていたらしい母親ジャネットは、久しぶりの息子の電話にもうわの空。傷ついたビリーは両親の関心を引くために、これから女房を連れて帰るとつい啖呵を切ってしまう。しかし、本当のところ、彼には女房どころかガールフレンドもいない。でも、両親に約束したからには、なんとかしなければならない。そんな彼の前をダンススクールでレッスン中の1人の女が通り過ぎる。ミニのレオタード。足には銀のタップシューズが輝いていた。それがビリーだけの天使レイラだった。無理矢理レイラを拉致したビリーは、両親の前で自分のかわいい妻を演じることを強要する。俺の顔をつぶしたら二度と口をきかないぞ。うまく演じたら親友になってやる。

強面なふりをして奇妙な脅迫をするビリーに半ば同情したレイラは、彼の実家へのドライブに付き合うことにする。ブラウン家の食卓。ビリーの出産でバッファロー優勝の貴重な瞬間を見逃したと当てつけがましいフットボール狂の母親。息子に全く関心を示さない父親ジミー。そんな両親でも、ビリーは少しでも自分を愛してほしいと願っている。レイラには、愛されずに育ったビリーの心の叫びが聞こえたような気がした。バラバラな家族の奇妙な夕べだったが、レイラの登場はいくら場をくつろいだものにした。その証拠に、むっつりした父親がかつてクラブで歌っていたときの18番の曲を彼女のために歌うと言う意外な一面を見せたのだ。ビリーと馴れ初めを必死で話すレイラだったが、母親の視線はテレビのアメフト試合に釘付け。アメフトは好き?と玲奈に聞かれたビリー。彼には苦い思い出があった。

払いもしない1万ドルをバッファロー優勝にかけ、玉砕。飲み屋は、借金の肩代わりに、友人の罪を被ってムショに入れと命令したのだ。ブラウン家を後にして、街のボーリング場へやってくる。そこはビリーが唯一、輝いていた場所だ。マネージャーのソニーは、ビリーのマイボールを保管し続け、懐かしいと暖かく迎えてくれた。もう役目は終わったはずのレイラだったが、一緒に写真を撮りながら、別れがたい気持ちを感じていた。そして2人はデニーズに入る。するとそこに、ビリーの初恋の相手ウェンディがフィアンセと共にやってくる。ビリーの名前さえ覚えていないウェンディは、高校時代に自分のことを追いかけていたビリーのことを笑いものにする。そして傷ついた彼に、あなたは優しすぎる人なのよとレイラが言う。

冷え切った体を温めようとモーテルに入ったが、レレイラが体に触れることさえ拒むビリー。愛されたことがない彼は、愛し方も知らなかったのだ。そんな彼も、優しいレイラに癒されて少しずつ心を開き、狭いベッドの上で離れ離れになっていた2人の体は、だんだん近づいていく。しかしビリーには果たされなければならない復讐が残っていた。5年間のムショ暮らしの原因は、バッファローの選手スコットが八百長試合をして負けたからだと思い込むビリー。初めて味わう幸せもつかの間、胸に拳銃を忍ばせて彼は、心配そうに見つめるレイラを後に、引退したスコットが経営していると言うストリップ小屋へ向かった…とがっつり説明するとこんな感じで、99年最高にファンキーでキュートなラブストーリーであり、見るたびにいとおしく、思い返すたびにおかしく、2人の伝説的な映画である。


いゃ〜イエスのSweetnessがエンディング流れるのがたまらない。しかもあの家族の食卓のシークエンスはどう見たって、コンセプトはレオナルド・ダ・ヴィンチの"最後の晩餐"で、食卓の3サイドしか見えないことがわかる。互いに見合ったり、話をしたりしないバラバラな家族が写し出される。ギャロがオカマ豚って言うんだけど、これは今のジェンダーたちが聞いたら騒ぎ出すだろう。あの独特な拳銃を使う暴力シーンが静止画になるのは結構好き。ギャロはやはり当時のニューヨークで最もユニークかつ優れた才能の輝きを見せていたマルチアーティストだったと思われる。彼が出演している監督作品もやはりクセのあるものばかりだ。例えばエミール・クストリッツァ、アベル・フェラーラ、クレール・ドゥニ等の個性的な作品の中で、彼は個性的な演技を見せており、さらに世界各地で個展を開いている画家、写真家、バスキアとバンドを組んでいたミュージシャン、バイクレーサーでもあるのだ。まさにマルチに働く人物である。見た目もかなり彫りが深くて独特的なエキセントリックなビジュアルもたまらない。いっぽ間違えればサイコパス的なものを感じるし、カッコイイんだかかっこよくないんだか判定ができない特殊性がまた良い。

うろ覚えだが、確か彼は当時カルバンクライン、アナスイ、トランスコンチネンツなどのモデルとして独特のフェロモンを発散し、強烈なインパクトを与えていた気がする。その多彩なキャリアのどれもが最高にクール、プロとして高い水準にある事から、彼の才能の謎であり驚きであると言う評論家も多くいた。そしていよいよ彼が、本作でそのマルチな才能を初め映画監督として結集し、脚本と主演と音楽をこなし、ついに完成させた長編処女作であり、これが日本や世界的にヒットしたのである。ジャーナリストが大勢で大好きと感嘆の叫びを上げたとの事だ。

それにしてもこの映画ストックホルム症候群的な感じが非常にする。実際ストックホルム症候群は人質になった人物に対して起こりえるー種の症候群だが、この作品も主人公の男が女を拉致って、その女性が徐々に彼の内面を見ていき彼に感化され共に過ごし始めるのだ。誘拐まがいの乱暴な出会い方をするのに悪人ではない事をすぐに見抜いて、優しく振る舞う彼女の立場がなんとなくそう感じる。にしても、シャーリーズ・セロンがオスカーを受賞した「モンスター」と言う作品のクリスティーナ・リッチも本作に出てくるような感じの何でもついていく純粋的な女性で、なんとなくこのような演技が似合うなと思う。ほんの少しシンクロした。ギャロ自体はこの作品を、自分自身の子供時代のリアルな感情が詰まった愛の寓話に仕上げたかった言ってるし、確かに赤いブーツを履いて故郷へ帰るビリーも銀の靴を履いたレイラの存在は、どこか「オズの魔法使い」を連想させるようなファンタジーをまとっていると言われていた。そしてラストには、すべての観客に幸せを運ぶ究極のハッピーエンドが待っているとも…。

この映画ってどこかしらハードボイルド的な感じも見えてくる。ビンセント・ギャロの子供時代って、両親に対しての反感や失望または罪悪感と言うネガティブな感情が半端ないなと感じた。脚本には、両親から愛情をかけられずに育ったと言うギャロ自身の記憶が色濃く投影されているんだろうなと思う。こんな特異なメロドラマを作り上げたのは彼の子供時代の記憶のおかげだろう。どう見たってギャロ自身がこの映画を作って、過去のトラウマと決別しようとしている。いい加減両親の復讐の気持ちを抜きたかったたかったのだろう。いつまでもとらわれたくないと言う感じに…。それにしても彼自身実際にかなりトイレ行くのだろうか?この映画を見るとどことなくしょんべんをしに行くシーンがある。

こんなんじゃ膀胱炎にもなってしまうのではないだろうかと思う。しかも両親に会うのに極端に緊張している彼を見ると、かなりトラウマがあると察する。しかしながら両親以外の人物たちには暴言を吐いたり意地悪するので謎が多い。このビリーと言うキャラクターが非常にこの映画を水準を上げている。ー種のアイコンのように不精髭にぼさぼさの長髪、お尻が見え隠れするくらいのピチピチのタイトなパンツに真っ赤なブーツと言うスタイルは自分自身の持ち味をよく心得たナルシスト的な感じもするし、日本で言う原宿系、昔で言うヤマンバやがギャル的な趣を感じるのは私だけではないだろう。まさにギャロがギャルになっている(笑)。

クリスティーナ・リッチって当時かなり映画に出ていたが、ここ最近はあまり見かけなくなった。決して美人とも言えず身長も高くなくどちらかと言うとあどけなさを残したぽっちゃり体型に大人の色気を共存させるかのような存在だが、彼女がいちどスクリーンに出るとやはり強烈なインパクトを残す。誰しもが知ってる「アダムス・ファミリー」シリーズの少女役で有名になった彼女は、後に「キャスパー」などそういったオバケファンタジーのような子供向けの作品に出演していたイメージが強い。そして母親役にはなにげにオスカー女優のアンジェリカ・ヒューストンが出演していることにも驚く。あのデニーズのシーンにしか出てこなかったが、ロザンナ・アークエットは強烈なインパクトがある。彼女確か日本で超絶人気だったような気がする。そして賭博の飲み屋役にミッキー・ローク…まぁ個人的には結構豪華なキャスト揃いだ。

この映画摩訶不思議なショットが結構挟まれるが、撮影監督は、あのエキセントリックでカンヌ国際映画祭の主演女優賞を「ダンサー・イン・ザ・ダーク」で受賞したビョークやソニック・ユース、ベック等のミュージッククリップや、数々のCMで高い評価を受けているランス・アコードが担当してから納得させる。それにしてもこの映画に出てくるビリーと言うキャラクターは結構強烈で、とにかく癇癪持ちですぐに切れる癖があり、何の理由もなく怒鳴り散らしたり、ダブルスタンダードである。しかも、何かあれば全部他人のせいにしたり、しかし"テニスの王子様"の一善りょうまの言葉を借りるなら、入るよねこんな人たまに。と言う位に、こういう人物と言うのは全世界に少なからずいる。この映画を見て分かるように、彼は実際に友達がほとんどいなく、唯一知恵遅れの男がいるが、彼にすらののしりを言ったり傷つけたりする。結局彼は嫌われ者であるのだ。ビリー=ギャロとは思いたくないものだ。この映画はどことなくアメリカン・ニュー・シネマの風景を感じられる。というかいろんな要素が入っていて、やはり彼はシネフィルなんだなと思う。

しかし誘拐した女は、そんな男を愛してしまう。というか気になってしまうのだ。その理由と言うのは、彼女自身も人に優しくされたことがないからである。要するにレイラもまた人から温かい言葉などかけられたことのない人間であることが強調されている。だがそんなクリスティーナ・リッチが演じるレイラは、ボーリング場でここぞとばかりにタップダンスを披露するのだ。その時が彼女にとってのSpotlightを浴びる唯一の場面であり、最大の彼女の見せ場であり彼女が幼児体型のファムファタールだと観客に思い知らさす渾身の一撃である。なんといったってキング・クリムゾンのMOON CHILDに合わせてタップを披露するのだからたまらないのだ。

ギャロと言えば1962年4月11日ニューヨーク州バファローで生まれ、78年16歳で故郷バファローを離れ、ギターを抱えてニューヨークへやってきて、愛車で寝泊まりして、貧乏生活を送りながら、ニューヨークの路上でバスキアと知り合い、一緒にミュージシャンをやる。当時はダウンタウンニューウェーブの全盛期であり、彼も8ミリ映画に出演したり、バスキアとバンドを組み、演奏していた。後に、自分のバンドの演奏を兼ねてローマやヨーロッパを旅行し、画家のフランチェスコ・クレメンテや、ベルトルッチ監督と仕事をしている俳優のヴィクトル・キャバロと知り合い、その後のヨーロッパでの活動の基盤を作り、帰国後、当時住んでいるリトル・イタリーのアパートで暮らし始めていたのだ。そうした中80年代に入って二本の短編映画を作り、エリック・ミッチェル監督の長編映画に初出演すると同時に、サントラのスコアの作曲を担当し、83年ベルリン映画祭で最優秀オリジナル音楽賞を受賞した事は有名だろう。また、自分のバンドの方でもレコードをリリースし、曲のカバーをClementineに依頼したりもしていたはず。だが、カバーは実現していない。

彼は後に画家をやるが、確か日本でも京都書院刊のアートランダムの画集シリーズで紹介されていたと思う。しかも彼は健康保険をもらうための趣味としてプロのバイクレーサーになり、ヤマハのバイクで世界各地を転戦してたと言う変わり種のキャリアを持っている。それから懐かしのパルコのCMも確か99年春から全国でオンエアされていた日本で。本作に出てくるボーリングシーンは、完璧主義者の彼であるから、スタントを使いたくないため、1年間にわたって1日5時間の練習を自分に課したと言う話もある。昔から上手だったボーリングの腕前はみるみる上達してアベレージで200を越すまでになったそうだ。これはプロの世界で通用するレベルであり、すべての仕事は、有名になるための手段と言い切る極端さや、完璧なまでに作り上げられたルックス、成功への道を走るためのストイックな努力が感じられる。ちなみに彼が尊敬する監督はパゾリーニ、ブレッソン、そしてそのペキンパーをあげている。


少しばかり余談話をしたいが、本作の撮影は、ギャロ監督の生まれ故郷ニューヨーク州バッファローでロケが行われて物語の中心となるブラウン家の住宅は、実際ギャロが両親と住んでいた最後の家であるとのこと。昔とほとんど変わらぬ佇まいで、正面玄関に続く階段には今でも人工芝のカーペットが貼ってあるそうだ。殴られたりお仕置きされるたびに、ギャロはあの階段に座らされていたと言う。バッファローはとても寒くて思い出すのは階段にはいつも日が差してしていて、日向で暖かかったこと。あの外の階段に座って泣いていたと語っている。脚本の最初の段階は、両親をあっと喜ばせるために、俳優になる青年の話だったらしいが、エミール・クストリッツァ監督の「アリゾナ・ドリーム」の青年が多少似通った役だったため、以前書いた脚本のアイディア、出所したばかりの男が家族との夕食に連れて行くために女の子を誘拐すると言うプロットを取り入れる入れたみたいだ。
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