JOY

コクリコ坂からのJOYのレビュー・感想・評価

コクリコ坂から(2011年製作の映画)
4.0
TSUTAYAにて

「コクリコ坂から」を見た。面白かったけど、色々思うところがあった。うまく文章になるかはわからない。

 まず、松崎海ちゃん好き〜!!!
 毎朝君の味噌汁が飲みたいんだ。それ以外の主菜とかは俺が作るから良いよ。味噌汁の具は切って冷凍してあるからそれ使ってね。あっ、米も前日から炊飯器でタイマー予約かけて起きる頃には炊けるようにしとくから良いよ。くらいまで考えてしまった。
 ジブリに出てくるしっかり者の女の子と結婚したい、というのは男の共通認識ってことで良い?ダメなら教えてほしい。

 細かい点かもしれないが、風間俊くんのお父さん、結構パワー系というか、やらかしたり、テストでは?みたいな点数取って帰ってきたら、ぶん殴られそうな感じ。
 ジブリになかなかいないイメージのパパだね。

 年齢に不釣り合いな発達や成熟を抱えた青年が、その穴を埋める話ってまぁいくらでもあるかなぁ、、、けどまぁ面白いんじゃ、ないかなぁ、うーん。何にモヤモヤを感じるのかわからない。

 主人公以外の人間は、平々凡々なことしか言わないし、予想を裏切るような行動もない。それ自体の良し悪しではなく、主人公中心に進んでいく話はテンポが良いけど、多様な見え方を失う気がする。
 主人公以外の人間が、主人公を、副主人公を、ストーリーの前へ前へと推し進めていくだけのギミックになってしまっていて、それ以上の役割を持っていない。

 一つ前みた魔女宅で言うなら、ニシンのパイを届けた女の子の辛辣さだったり、森であった絵を描く女の子が初対面あたりがちょっとキツかったり、彼女たちの行動や発言は主人公に刺激を与え、行動を促している。

 コクリコ坂の登場人物のことを思い出したい。
 それぞれの出来事は主人公の転機になりこそすれ、転機を与えるのはあくまで出来事であって、海ちゃん以外は誰も自分の言葉で喋っていない。
 主人公になんの刺激も与えてないんだろうな、と思ってしまう。
母親をはじめとする、割と無関心な空気が気になってしょうがない。

 それは物語的なご都合主義とも言える。武田泰淳が大岡昇平の「野火」に指摘した諸問題が、そのままこの作品の奥行きのなさに当てはまると思う。
 主人公以外の登場人物の「空洞化」が見られる。打ったら響くだけのがらんどう、ただのギミック。

 「哲学的ゾンビ」という概念を思い出した。作り物ゆえその状態から逃れられないジレンマが常に創作にはつきまとうのかもしれないけれど、大袈裟に言えばコクリコ坂の登場人物は、客観的な刺激に対して、物語的なご都合主義を推し進めるだけのための反応をする存在に見えてしまう。
 哲学的ゾンビについては以下の解説がわかりやすい。
【漫画】下校時刻の哲学的ゾンビ | オモコロ http://omocoro.jp/kiji/64616/
「『下校時刻の哲学的ゾンビ』のセルフ解説」2019年6月8日の日記|品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山) @d_v_osorezan #note https://note.com/d_v_osorezan/n/nb1a60807012c

 通常のスタジオの作品であればそこまでの不自然さは感じないと思う。
 けどジブリ作品のもつ民俗的な郷愁というか、民族の共同幻想としてのふるさと的な風景が、見るだけでそれとわかるスタジオジブリの絵が、余計に登場人物の立体感の無さを浮き上がらせている。
 本作でも最初、見知らぬ女の子が朝早めに起きて、飯作って、旗をあげる、それだけのシーンになんだかジーンとくる。
 それだけに主人公以外の空虚さ、感情の凹凸の乏しさが殺風景に浮かび上がる。

 2ちゃんねるでたまに創作のスレを立てていた「富澤南」が単行本を出した際、乙一が帯に寄せたコメントを思い出した。「この作者の1番の功績は、匿名掲示板の掲載という方法を使って読者に魔法をかけたことだ」とか言うコメント。
 この作品にはジブリというブランドが逆の魔法をかけてる気がする。いや、わかんないな、ジブリじゃなかったら見てないのかも。
 良い意味でも悪い意味でも、何にも残らなかった。
 けどこんな構造的な部分を否定しまくって、何になるんだ?

 高校の時、あまり好きではなかった数学の教師が「コクリコはねぇ、、、面白いんだけど、駿的深みが足りないって言うかねぇ、、、」と言っててクソムカついて「絶対楽しんで見てやるからな」と決意したのも思い出した。
 楽しんで見れたとは思うが、宮崎吾郎のこれからに期待しつつ、待ちたいな、とも思った。
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