JOY

クリーピー 偽りの隣人のJOYのネタバレレビュー・内容・結末

クリーピー 偽りの隣人(2016年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

Netflix

香川照之、東出昌大、竹内結子、三者三様に色々あったので、上映当時に監督が狙っていた見え方とか、見た人の感想からはバイアスがかかっているような気がする。

例えば香川照之の演技ひとつにしても、「俳優としての腕」という言葉で済む箇所が、「あー、狂気のある人じゃないとこういう演技は出来ないよな」とかどこかで考えてしまう。竹内結子も同じく。東出くんの演技は、どこか斜めから見てしまう。
それを前提に感想を書く。

映画は1カット、1シーンがやたらと示唆的で困る。カットごとの情報量が多いとも言える。それはヴァニタス画の解釈みたいに、一つのシーンやカットが、多層的な意味構造を持つ事で、映画自体の深みを増すような効果がある。
例えば大学教授に転職した主人公があくびをするシーンで、これは単に慣れない仕事に移行しだことから来る「あくび」という、疲れを示唆するものととることができる。その一方で、殺人事件やサイコパスの心理的分析という第一線の現場から退いた退屈を示唆する「欠伸」とも取れる。こうした「解釈の多様さ」が、映画という媒体の表現に奥行きを与えている事実がある。こういった「解釈の多様さ」において、黒沢清の作品の独自の特徴があるのではないだろうか。

ただ、上にあげた例はどちらかといえばわかりやすい物だと思う。例えば最後のシーン、犬のマックスと少女が走りながらどこかに行ってしまうシーンや、竹内結子が叫ぶシーンにもさまざまな受け取り方ができる。依存先がなくなったことなのか、積み重なった悪事への後悔なのか、ひとつ終わったが失ったものは大きかった悲しみなのか、夫との関係性が変わってしまってもう戻らないことなのか。ひとつひとつ、ハッキリした結論が出ない事とか、言葉少なに作品が作られてるから、難解に感じるのかも。

こういう話は、出てくる器具が事務的というか、必要な機能を持っているだけの道具であればあるほど、恐ろしく感じる。ノーカントリーの牛を安楽死させる棒とかね。
今回の人を真空パックにする機械も、事務的な恐ろしさがあった。

車の移動シーン、急に謎のCGみたいな背景になったのまじで何だったんだ。
JOY

JOY