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ルートヴィヒ 完全復元版の文字のレビュー・感想・評価

ルートヴィヒ 完全復元版(1972年製作の映画)
3.4
 ヴィスコンティ作品。所謂「ドイツ三部作」最終作。タイトルが示す通り、「狂王」ルートヴィヒ2世を叙事詩的に描く。長い。終始絢爛な映像が続いていた。制作費がとてもかかってそうな作品だった。
 ただ観想的生活を望むルートヴィヒは、ロマン主義の極致のような人物に見えた。どこまでも孤独で、まるで世界の誰にも理解されない異邦人であるかのような感覚にとらわれる。しかしそれでも、亡命や逃亡を選ばず、ただそこに在り続けようとしたあたりからはパラノイア的傾向が見て取れる。古典に美を見出したことからも推察するに既存性に根拠を置くポスト・フェストゥム意識が強いように思う。彼は未知なる未来を見いだすことができない。未知なる未来を持ち合わせないからこそ、いつまでも喪失から抜け出せなかったり、状況の変化に対し理性的に対応することができなくなったりしている。しかし、それは悪いことなのだろうか。今までにそうであったことを、一個の蓄積として所有するのか、あるいは今の自分の状態として存在しているかという見方の差異があるだけなのではないだろうか。しかし疑問も残る。パラノイア的な彼は自己存在の根拠、あるいはそれを支える秩序というものをどこに見出していたのだろうか。彼は何を喪失して、パラノイアになったのか。映像を見ると、元々ポスト・フェストゥム的意識が強かったことは想像するに難くないが、自身の地位を喪失してから不安というものが増大しているように見えた。何という皮肉だろうか。彼は観想を求め、政治や国務に対しては全く関心を示さず、退位まで考えていたにも関わらず、いざそれを失った途端に(つまり所有の喪失が発生した時に)メランコリーが誘発されたのである。
 ルートヴィヒの意志において、自己とともにあることと他者とともにあることがどう結びつけられるのか。彼が王位に就いた段階で、それを新しい始まりと唱えたのは確かである。しかし観想を望む彼は、言葉において他者を望みつつも、実際はそれを望んでいない。芸術を愛しワーグナーらを招聘しつつも結局は様々な要因から周囲の人間は離れていった。一見政治とは関係ないようにも見えるが、意志における他者の欠如は、彼の政治性の限界というものを規定していたように思う。ルートヴィヒのような存在者が他者への開かれを保つことはいかにして可能になるのだろうか。他者とともにあろうとしつつも、それを望まないルートヴィヒが救済不可能な存在のように見えて、それがこの作品の悲劇性を高めていたように思う。ただ別に彼が善人であるようには見えなかったので、特にカタルシスを誘うような装置はない。
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