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風の中の牝鷄のlingmudayanのレビュー・感想・評価

風の中の牝鷄(1948年製作の映画)
5.0
冒頭から登場する鉄骨の塔?が言い様のない息苦しさを本作に導入する。この塔の垂直性はそのもとで暮らす田中絹代とその子、後に帰国する夫の佐野周二といった庶民に襲いかかる終戦直後の(混乱した)社会秩序と解釈したい。そうすれば本作に出てくるもう一つの垂直性である階段もその文脈で読み解けるからだ。

一方で垂直性とは真逆の水平性を導入するモチーフも本作には登場している。それは田中が自分の子や旧友の村田知栄子と安らぎ、佐野が文谷千代子と語らう川沿いだ。こうしたシーンで彼らは自分たちに苦難をもたらす社会秩序から一時解放されている。見逃せないのはいずれのシーンの前にも彼らが窓から外を眺めやり、過去を回想していることだ(田中と村田は女学生時代、佐野と文谷は文谷の通った小学校を眺めやる)。

物語は田中が子の治療費を捻出するために一晩だけ身体を売ったことを佐野が知り(売春の場面では酒瓶に焦点が当てられるが、帰国した佐野を迎えるために酒瓶が持ち込まれるという不吉さも見逃せない)、それを責めて田中を突き飛ばしたところ田中が階段から落下するという衝撃的なシーンへと向かっていく。ここで現代のDVの観点から佐野の暴力性や、その後に佐野が田中に語る台詞のパターナリズムを云々してもいいが、それは映画を観ることとは何の関係もない。重要なのは、田中が自身に過ちを犯さしめた社会秩序の象徴たる垂直性=階段から転げ落ちることが、彼女の過ちを頭では赦せても心では赦せなかった佐野が赦せるようになる契機になるということであり、佐野と抱き合った田中が彼の背中で組む祈りの手を導く(田中は子の回復を祈る際にも手を組んでいる)ということなのだ。そうしてはじめて我々は、終戦直後の社会秩序の中で汚れることから免れ得なくとも、なお道徳心を失わないよう祈る日本人の姿を田中に見出だすことが出来るのだ。
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