風の中の牝鷄の作品情報・感想・評価

「風の中の牝鷄」に投稿された感想・評価

奥さんが、階段の上からノンストップで転がり落ちるシーン 奥さんが階段から落ちたのに助けようともしなかった 旦那が怖かったです。
RYUYA

RYUYAの感想・評価

4.0
小津のコワイ一面がダクダク流れ出た仄暗い一作。

貧しく暮らしながら夫の帰還を待っていた妻であったが、突然の息子の病気の治療費が払えず、売春宿へ足を運んでしまう。
数日後、夫は帰還し再会を喜び合うが、息子の治療費の話になり妻は口を紡いで何も言えなくなってしまう。何かを察した夫は、その一夜の事を聞いて回るが...

まるで現代でもあり得そうなメロドラマ的筋書き。シニカルな社会と、向き合えない人々の焦りのようなもの。ホラー的演出もちらり。

とにかく、「階段」の演出。
声が出るほど素晴らしかったし、それ以上に、おぞましく、こわかった。
ホラー映画監督としてのセンスを感じさせる一品。戦後の苦しい生活という成瀬的なテーマで、序盤の佐野周二の不在、禍々しい階段のショット、通奏低音のように鳴り響くインダストリアルなノイズ、佐野周二のカオスな髪型、落ちる缶、落ちる紙風船、からのクライマックス、そこでの佐野周二と田中絹代の物理的な距離など、違和感だらけ。無言・無音での悶々とした佐野と絹代の切り返しだけで緊張感がビルドされていく流れが見事。あと、斜め向かいに座ってて(俯瞰図にすると左上に佐野、右下に絹代)、アップ佐野が右に振り向き「おい」と言い、アップ絹代が右に振り向き「はい」と答える、運動のリズミカルな反復が鳥肌モノだった。時代錯誤な男女観は受け入れがたいし、とにかく暗いが、見応え充分。

2018/5/2 神保町シアター
「映画監督 小津安二郎 『をんな』たちのいる情景」
@神保町シアター
こっ

こっの感想・評価

4.0

このレビューはネタバレを含みます

神保町シアター『「をんな」たちのいる情景』にて鑑賞。

「昨日から流れているこのシャンソンがやたら悲しく聴こえるんだ」「そうかい?それでも、これはやっぱり明るくなる歌だよ」
悲しい時に笑うカットが多く、小津ならではの会話のテンポがまたその悲しみ、そして嬉しさを強調している。
塞ぎ込みながら夫へ気持ちを向ける妻の視線が暗く輝いている。

手を組むカットがやたらいい…序盤のあの繰り返しのカットはここに繋がっていたのかと納得してボロボロに泣いてしまった。
夫の背中を抱く田中絹代の手が、そっと指を絡めて握っていくのがたまらん。階下まで降りない夫が不自然だし、真上から見る時子の這った姿が不穏...
TOSHI016

TOSHI016の感想・評価

3.5
普通の折りたたみ自転車で愛知県から千葉県までの途中で鑑賞しました。箱根越えが辛かった。
ENDO

ENDOの感想・評価

3.6
階段の演出は震える。2度の下降。病気の息子を抱えた寡婦の心細さと言ったら。女優を映さずにあの一夜を想像させる嫌な演出が冴え渡る。その裏にいる女給や看護師の冷めた(そして本来の我々の日常的な)会話の挿入によりとても現代的な視点となる。大枠は倫理を重んじるメロドラマだが、通底するのは人間関係のどうしようもない軽薄さなのかも。何もかも忘れようとするのは戦中派の必然なのかもしれない。
よく知られているように、後期の小津の作品からは、「階段」が意図的に排除されている。このことは、舞台装置が視覚的に排除されているということ単に意味するわけではなく、もっと説話論的なレベルで小津作品を規定しているきわめて重要な事実である。
「階段を媒介として結ばれることのない二階の部屋が、排除=選別の機能を発揮することで、作中人物を二つの生活領域に分離させているという事実が、それぞれの映画における小津的「作品」としての相貌をまとわせることになるのである。不在の階段は、階上へと人を導く上昇する通路ではなく、不可視の壁のようなもので、それを水平に通過しえたものだけが宙に浮んだ空間としての二階に自分を見出す特権を手に入れる。そして、いうまでもなく、その特権の所有者は、たえず二十五歳でとどまりつづける未婚の女たちなのだ」(蓮實重彦『監督 小津安二郎』)
『風の中の牝鶏』において、二階に生活するのは「二十八歳の既婚の女」である田中絹代とその息子、そして復員をはたした夫の佐野周二である。だとすれば、蓮實の指摘が逆説的に暗示しているように、この作品というのは、「小津的作品」が完成をむかえる途上の、過渡的な「失敗作」だと断言するほかはないのだろうか。
思うに、階段というのは、特殊な記号的意味を持っている。というのも、それは階上と階下とを「結びつける」ものでありながら同時に「分断する」ものであり、そう考えてみると、階段とは「メディア」というもののこのうえなく正確な比喩になっているからである(メディアとは「統合」と「分断」の装置である)。
だから、田中絹代が佐野周二の手で階段から突き落とされるというこの映画の大団円は、小津映画を通史として眺めるときに象徴的な相貌を明らかにする。後期になって小津が、たとえば娘の結婚と父親の苦悩といったテーマを性懲りもなく反復するためには、1948年時点のこの映画において、いったん階段というものの通俗的なメディア的な機能を浮き彫りにする必要があったのだ。
えてして私たちは、作家の「完成期」以前の作品というのを、そこに至るまでの未熟な過程としてとらえがちである。が、「更新されつつある不断の現在」のなかでしか作品というものが生まれない事実に思いを馳せるとき、なかなかどうして、こういう「失敗作」を「小津以前の作品」として適当にいなすことなどできないのである。

このレビューはネタバレを含みます

1948年、田中絹代主演の小津安二郎監督作品。(上映時間は84分) 

戦後まもなくの下町で、貧しいながら服を売ったりしながら幼少の子供と生きる女性(田中絹代)。序盤で、田中絹代が鏡に映った自分の顔をじっと見るシーンがあるが、小津安二郎監督の凝った映像。田中絹代が自分を見つめている重要な場面。 

その後、子供が病気で入院してしまうが、子供の退院時の場面で、看護婦が2階から母子を見送る場面は、田中絹代の母子を「俯瞰」で捉えたショットあり、小津監督としては珍しい人物俯瞰シーンである。その他は、基本的にいつものローアングルである。 

子供の入院費を捻出するために、一晩だけ体を売ってしまう田中絹代だが、その直後に夫(佐野周二)が4年ぶりに復員してくる。その夫に嘘はつけない、隠し事はできないと事実を告げたことから、夫の怒りは収まらない。追求する夫は、田中絹代が体を売った家に行くが、そこでは21歳の女が同様商売をしていた。「こうしないと生きていけないから、嫌だけど仕方ない」という女に、「君の勤め先を見つけてあげるよ」と立ち去る佐野は、友人(笠智衆)に女の勤務先を頼む。 

その笠智衆から「奥さんを許してあげろよ。仕方ないじゃないか」と言われて帰宅するが、妻の顔を見るとやはり同様の振る舞いをしてしまう夫。この時、夫が出ていこうとするのをとめる妻を階段から落としてしまう。
この田中絹代の「階段落ち」は、あの『鎌田行進曲』の階段落ちを凌ぐ迫力ある場面である。田中絹代、体当たりの演技。凄まじい。

そして、夫婦は抱き合うが、夫の背中に回した手を握り締める田中絹代の「手の演技」も見事である。 

終戦直後の風景を捉えた傑作
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