IrateBeggar

竜馬を斬った男のIrateBeggarのネタバレレビュー・内容・結末

竜馬を斬った男(1987年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

男達の輪廻

佐々木只三郎が竜馬暗殺に至るまでを描いた本作は大河ロマンでも軍記でも、はたまたサイコスリラーでもなく、紛れも無いメロドラマだ。
主人公は根津甚八演じるシニカル・リョーマに己を見る。只三郎にとって竜馬は、自分という影の持ち主だったのだ。強者として順風満帆な人生を送る彼が、いつもどこか鬱々としているのは、いつか自らを狂わせる竜馬という男の存在を、恐れ、待望していたからか。
只三郎にとっての竜馬、つまり影の持ち主は喜助にとっての只三郎でもある。影は持ち主に気付かれないからこそ影なのだ。

この映画は只三郎という男の転落記なのだが、画は弾けるように鮮やかだ。
只三郎が竜馬をテロリストとして認識してから暗殺に至るまで、夜の場面が多いのは意図的なんだろうか。落日後の京都は黒ではなく濃紺である。その中で着流しの白や赤い布の発光しているような美しさ。
しかし、暗殺以前の輝かしさに比べて、以後は乾いて寂しい。一見すれば蛇足だ。ただ、それは只三郎にとって、竜馬の訪れという狂気の季節こそ人生の春だと強調するための演出ではないだろうか。

只三郎にとって大事なものはいくらでもあっただろう。けれど、竜馬という運命の男に出会ってしまえば、彼らはもう見えないのだ。そのせいか、京都以後の只三郎と妻、愛人との絡みは上滑りする。妻と水を掛け合った時のような心の跳躍は無い。彼が愛人に送った着物はただの手切れ金だ。

好意と憎悪、情景と共感、ギリギリに張られた糸は竜馬を殺すことによって切れる。
それから只三郎の人生が色を持つことなどあり得るのだろうか。只三郎はそれを自覚していたのか…。
良き、または悪しき武士の時代そのものの只三郎は、幼馴染の百姓喜助に斬られる。
戦場まで追いかけ、自分を殺しにきた喜助に只三郎は何を思ったのか。「おれはお前が好きだったんだ…。」

喜助は只三郎その人だった。息絶える寸前、今更、妻の八重を「いい妻だ」と讃える只三郎。あまりに軽薄じゃないか。けれど、それは本心だったはずだ。彼は竜馬にさえ会わなければ良かったのに。でも、出会ってしまった。出会うことは決まっていた。男達の業が追いかけっこを始めて、堂々巡りだ。しかし、竜馬なしに只三郎の人生に春は訪れなかったということだろう。

以下にショーケンによる印象的な只三郎評を引用しておく。

ーなるほど。撮影をずっと見てるとね、佐々木只三郎の萩原さんがいつも少し悲しみをこらえているみたいな顔をしてますね。今切ないと言ったのはそういうことですね、きっと。
萩原: 切ないよう。自分斬っちゃったみたいなもんだから。切腹だもん。
ーさっき言われたコインの表裏みたいな関係なんだから。
萩原: もうほんとにね、ああいう時代じゃなかったら、(中略)友達になれてたんじゃないかな。だから、斬れない人なのよ。
根津甚八ってのは大好きなわけ、おれは。斬りにくい人。いま山崎努と根津甚八って大好きなの、奥ゆかしくって。うん。
ーそれを斬る。
萩原: そう!憎たらしいのはね、幾らでも斬れるけど(笑)。やっぱり好きだったんだよね。でも、やっぱり斬らなきゃーいけない!だから昔の人はほんとにかわいそうだったね。
(キネマ旬報 1987年3月上旬号より)

同書で萩原健一氏は佐々木只三郎を「気持ち悪いよう、やっぱりあの野郎」と評し、自分は竜馬を演っても構わなかったと語っているが、只三郎はこれ以上ないはまり役だったのではないか。根津甚八氏の竜馬と相性が良かった。
やはりショーケンは「御法度」で土方歳三を演じるべきだった。ビートたけしよりずっと情緒があったはずだ。
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