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たのしい知識のTnTのレビュー・感想・評価

たのしい知識(1969年製作の映画)
4.2
 ゴダールがテレビで公開しようとして拒否された作品。作中に「私たちは映像と音を解体するの」という台詞があるように、前作「中国女」のようなインサートによるコラージュ的な編集と、暗い画面に人物が浮かび上がる新たな表現がここにある。コンセプチュアルでミニマルな作品。内容は相変わらず哲学も化学も政治もごちゃ混ぜで”混乱している”。今作品は完璧主義ではなく綻びがあり、まさしく監督一個人としての人間像があり、このごちゃ混ぜが許されるのだ。

 それにしても、1970年代はどの映画監督もTV用に作品を撮っている。フェリーニは「フェリーニの道化師」、ベルイマンは「夜の儀式」、ゴダールは「たのしい知識」。

 そういえば、今作品はやたらと他の映画監督の名前が出てきている。なんか、同時代の映画監督のことを自分の作品で言及するのって挑発的だし凄い自信だし、面白いなあと感心する。

 批評的態度必須の映画。この映画はたくさんの革命的思想に基づく映像、音、テキスト、台詞が出てくる。しかし、はっきり言ってここから革命思想へと導かれるとは思えない。内容は散文的でひとつの道筋を導いていない。つまり、これらの素材たちは観客の前で批評的に解釈されることを望まれている。わかる、わからないの二項対立で考えがちな映画の価値基準だが、こうした私たち自身が主体的に考えなければならない作品が今作品である。ゴダール映画はその知識に反して述語が弱い。単語の並列でコラージュ的であり、それらをどう結びつけるかが問題で、それらを解決に導きはしないのだ。

 この映画にはドラマがない。人物の背景は何も示されることなく、彼らの言葉を聞き入るのみ。どこにいるかもわからず、闇の中を闊歩する二人の人物。それはあたかもTVの中に現れた妖精のようであり、彼等は視聴者の存在にも気が付いている。また光の中で浮かび上がるジャン・ピエール・レオーとジュリエット・ベルトの顔が美しい。単純に光の賛美であり、そのもっとも最小限な表現である。

 スイッチング。映像や音がチャンネルを変えるように変わっていく。TV的な表現だが、やはりゴダールの手にかかると一つの表現になってしまうのですごい。ただ、スクリーンほど映像が優位ではないTV向け作品にしては助長なところもしばしばあった。ただ、どこから見てもいい作品であるようにも思えた。

 コラージュ。使用している音声や画像は世間一般に流布している漫画、雑誌、報道などのものである。しかし、そうした世間一般のものを使用しているにも関わらず、TV側は今作品を公開することを拒否した。もし今作品を公開すれば、TV自らが持ち合わせる暴力性を肯定しかねないからだ。それ故か、ゴダールは過激に映像の暴力性を暴いていく。

 質問と応答。この構造はよくゴダール映画では見られる。しかし今作品はまさにその質問が強制的で暴力的であるかを自明なものとして描いている。それは突如挿入される子供との対話だ。子供は笑顔で純粋に質問に答える。しかし、投げかけられる質問の過激なこと。このシーンは流石に「うわ・・・」と引き気味で見た。ゴダールのソニマージュ系の作品は突然こうした牙を剥く(そりゃTVも拒否するだろう)。「映画」に対して「光」と答えたこの子供はかなり天才的であるが。また、思うにこの質問とは返答しても返答しなくても質問された当人をなんらかの思想を与えてしまう。「ファシスト」という言葉に黙すれば返って意味深になる。「質問はすでに拷問に変わってるんだぜ・・・」という台詞がジョジョにあったけど、なるほど確かにである。その後に老人に対しても質問を浴びせるのだが、今度はその老人の回答をテープで鸚鵡返しして、反芻させる。こちらも非常に残酷というか、なんだか胸が痛いシーンだった。またTVが舞台側とスタジオ側でわかれていることをこの映画は暴いてしまっている。僕らが見る画面の裏の暗闇には沢山の指示者がいることを、その暗さと怖さを暴いてしまっている。それを表すために非常に冷徹な演出が施されている。

 教育。あるシーン、ジュリエット・ベルトが鼻歌を歌い、それをジャン・ピエール・レオーが「アー」という正しい音に直すために首をしめる。明らかに演劇的素ぶりでありながら、この暴力性はなんだろうか。「中国女」でもブレヒトなどの名を挙げて演じることについて説いていたが、今作品もまさにそう。映画の中とは演技なのか現実なのかが非常に曖昧で、だからこそ強烈な印象を残せるのではないか。派手な暴力や性描写が映画界を一時的に占めていた時代もあったが、それらは表層的であり真に過激であったのはこうしたゴダールの演出なのではないか?(それでも派手な暴力や性描写にみる映画的快楽も否定はできないし、事実そうしたB級映画的思想をゴダールは好んでいる)。

 近年、政治は芸術を大いに利用するようになった。かつてヒトラーがプロパガンダによるイメージ戦略で勝利したように、あらゆる政治、企業などがイメージ戦略を図る。逆に芸術家が政治を語ることは殊に日本においてはタブーとなっている。しかし、芸術の長い歴史や文脈からその政治性を無視すれば、芸術は廃れるばかりだろう。なぜなら色や音、映像が持ち合わせる語ることの強さを無視することになるからだ。政治や企業がそれらを自由に使えて、なぜ芸術家単位になるとその制限が厳しくなるのか。そこにはもうすでに言論の自由が脅かされていることがわかるだろう。

 映画・・・ミゾトディマン・・・方法と感情
 映画・・・今までにないもの・・・この先もない、もう存在するから
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