河

ジュデックスの河のレビュー・感想・評価

ジュデックス(1963年製作の映画)
4.4
今後この映画でしか味わうことのないだろう奇妙な感覚にさせられる映画。ヒロインがマクガフィンとなっていてひたすら運ばれまくるのが良い。ルイ・フイヤード版見てから見た方が良かったかもしれない。1910年代のサイレント映画であり5時間ある元の映画をどう1960年代、トーキー、90分の映画に作り替えたのかが重要な映画のように感じた。

リメイクというと元の作品の骨格だけとってきて今のマナーで作られることがほとんどな気がするが、この映画は元の作品のマナーをほとんど変えることなく、1960年代の他の映画と並べて鑑賞可能な映画としてリメイクしたようなものに感じられる。サイレント映画にはセリフは中間字幕で、叫び声や効果音は伴奏の一部となっていることが多い気がするが、このリメイクは、その伴奏をなくし、中間字幕をセリフとして発声されるように変えただけのものとなっている。元の作品が伴奏が常に鳴っているという前提で作られており、それがないため全編異様に静かな映画となっている。そこに、サイレント映画における伴奏の一部としての音量、つまり爆音で叫び声や効果音が鳴り響くため、非常に現実離れした感覚がある。それに対して、映像だけ見れば、画面としてサイレント映画的な情報量の多さが残りつつも、演出は1960年代のものにアップデートされていて、映像だけ見れば1960年代に作られたサイレント映画というような映画になっている。また、映像としても元の作品のマナーを残そうとしている感覚があり、クライマックスの曲芸師とダイアナの争いの体の動きなど、たまに独特のダサいようなかっこいいようなショットがある。

元を見てないからわからないが、1910年代の今見ると稚拙に思えるようなプロットを変えずに使っており、それが1960年代的なルックを持つ映像と合わさる違和感がある。クライマックスでそれまで言及されなかった探偵の友人が奇跡的に現れ、さらにその友人が状況を解決する特技を奇跡的に持っているなど、展開が本当に唐突で、理由づけが全くない。さらに、一部分をリメイクするのではなく、5時間の映画をダイジェスト的に90分にしているため、その展開の唐突さ、不条理さと映像との間の違和感がより増幅されているように感じる。

洗練された映像によってサイレント映画としてではなく1960年代の映画として見てしまう中で、サイレント映画から伴奏を引いた異様な静かさ、稚拙に思える物語展開が常に違和感として存在している。その違和感によって、常識人の見た目をしたサイコパスのような、何か得体の知れない恐怖がある。しかし同時に、そのギャップによる滑稽さもある。その意味づけすることのできない唐突な展開の連続も合わせて、何か明晰夢を見ているような感覚がある。映画=夢となるのではなく、映画を見ているという感覚と夢を見ているという感覚の狭間の感覚がある。元の作品が初期シュルレアリスムや精神分析と同時代であることも考えれば、その奇妙なリメイク方法によって、元の作品の本質的な部分を今のものとして生き返らせたということなのかもしれない。

そして、冒頭、主人公のように登場する探偵は主要なキャラクターでありつつも脇役である。そして、彼が行うのは道案内だけである。劇中、探偵が不思議の国のアリスのウサギへと重ねられ、アリスという名前の娘は冒頭とラスト以外に出てこない。これがこの映画独自の設定なのかはわからないが、それによって、観客がアリスとして、この『ジュデックス』という何か夢の中のような映画内世界を見て回っていると考えることができる。

オリジナルと同時代のドイツ表現主義映画の特徴の一つとして、メタ構造がある。この作品でもメタ的な存在として、偶然的な出来事を自由に起こすことのできる製作者がおり、唯一物語内で縦横無尽に動き回れる存在としてダイアナ(イルマ・ヴェップみたいな女性)が存在すると考えることができる。いわば、ダイアナは、映画内人物として他の人物に直接介入できる製作者の別人格のようなものとなっている。本来、ジュデックスが老人の代わりに富豪に復讐を果たす、そこにその富豪の娘へのジュデックスの恋心が関わってくる、だけで綺麗に完結する話であり、それをダイアナがかき乱し、それを物語として進め、終わりへと持っていくために製作者が後追いで出来事を起こすという形で物語が進む。一回完成した脚本に、一人好き勝手に暴れる人物をぶち込んでかき乱させて、再度無理やり映画として成立する形にしたというような脚本の書き方がされているように感じられる。

都合の良い物語展開はメタ的なレベルであるからこそ、登場人物達はその奇妙さに気づかないふりをし、振り回されるばかりでいる。登場人物は、子供の人形遊びでの人形のように見える。そして、このリメイク版では、最後に「不幸な時代の思い出に」と書き残されるからこそ、この製作者によるメタ的な操作、その存在に気づかない振りをする出来事に振り回されるしかない人々という構図が、戦争へ向かう時代のメタファーとなる。

このような脚本の書き方だったとすれば、その理由は物語展開よりも撮りたい画面を優先したから、元の脚本だと画面が地味だったからとかなんだろうか。ダイアナは監督の撮りたい映像を実現させるために投入された存在、監督の欲望を反映した存在といえるのかもしれない。『ファントマ』の時に悪をかっこよく描きすぎてるという批判があってのオリジナルの作品らしく、ダイアナがいなければジュデックスはかっこいいヴィジランテとして終わることになるから、その批判を元に書き直したってことなのかもしれない。

白と黒の女性、富豪である自分と誰からも信用されない自分(鏡に映った自分が追いかけてくる)など、分裂した自己という主題は精神分析からのもので、オリジナルと同時期のドイツ映画にも現れ、その後ドイツ表現主義映画で影や鏡のモチーフと紐付き繰り返され、洗練されていくことを考えれば、これはオリジナルのものをそのまま使っているということなんだろうと思う。オリジナルの時代性によるものなのか、そういったシュルレアリスムだったり精神分析的な言及がかなり直接的で無邪気。映画内の登場人物の役割やモチーフも、夢分析における意味によって読み解けたりするんだろうなと思う。
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