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コルドリエ博士の遺言のzhenli13のレビュー・感想・評価

コルドリエ博士の遺言(1959年製作の映画)
3.9
目に見えるものよりも考える材料が色々とある作品かもなと観終わって思った。それがサッシャ・ギトリかヒッチコック劇場のようなメタ導入をしてスリラーもののように、しかもジャン=ルイ・バローの見事な身体芸を伴って表されることの贅沢さ。

ドニ・ラヴァンがカラックス作品で演じた怪人メルドがあまりに強烈だったためにその元ネタであるオパールを後追いで知った身にはどうしてもオパール=メルドに見えてしまうのだけど、「魂の解放」という意味では『素晴らしき放浪者』でまさに素晴らしかったミシェル・シモンのブーデュを思い出したりもした。ブーデュに似ているのではなく、よほどブーデュのほうが解放されていて虚無であったことを想起した。

何よりもジャン=ルイ・バロー(彼がキャスティングされている時点で十分期待されていた)によるコルドリエからオパールへの変貌の身体芸…バルテュスにも似た鋭く紳士然とした様相から土方巽の暗黒舞踏のような異形の動きの始終を見届けることができる。
オパールが無抵抗な通行人を突然襲う現場に居合わせた人々は、必ず男性がオパールに立ち向かうか追いかけるかして、女性が被害者を抱き起こし介抱するという役割にきっちり分けられている。それが終盤コルドリエ博士の実験室にオパールを追い詰めたときには男女関係なくオパールを取り押さえている。また公証人が車から降りたとき靴の裏を気にして(「メルド」を踏んだのか?)足を擦り、建物入口の段差でまた足を擦り、という動作を繰り返している。ジャン=ルイ・バローのみならず、これらの意味ありげなアクションがそこかしこにある。

紳士然としたコルドリエが自らの不徳からくる良心の呵責に苛まれることに苦しんだ結果、良心の呵責無しに「悪」を為すことを魂の解放と解釈した、公証人が俄かに信仰心という言葉を持ち出すがそこに収斂されることもなく、しかし「悪」のまま潰えることも否定する。相反する概念の皮肉な提示という点では『草の上の昼食』も思い出した。
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