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ワイルド・アット・ハートのWILDatHEARTのレビュー・感想・評価

ワイルド・アット・ハート(1990年製作の映画)
4.8
『奇妙で野蛮な世界』


ローラ・ダーンの顔は面白いほどに歪む。
この映画の中でルーラがプーチおじさんに乱暴された時や刑務所から出所したセイラーが去って行ってしまう場面なんか、般若のように歪んだルーラ役のローラ・ダーンの顔に釘付けになってしまう。

実の母親であるダイアン・ラッドも負けず劣らずの顔芸を披露してくれる。
赤い口紅を全顔に塗りたくった絵面のインパクトたるや恐ろしい。
ローラ・ダーンが般若顔なら、ダイアン・ラッドは鬼瓦だ。
この親子の顔芸対決は目を見張るものがある。

いや、ストッキングを被ったウィレム・デフォーの笑顔も凄い。なんというか、永井豪が描いたデビルマンの笑った顔みたいだ。うっひゃあ。


デイヴィッド・リンチがこうした役者を好んで映画に起用する理由は、顔が奇妙で表情が面白い変化を見せてくれるからであろう。

日常の中に巧妙に隠されていて我々が見えないことにしてしまっている奇妙なものに、リンチは好んでスポットライトを当てる。

表情が奇妙に変化する人や、動作が緩慢な老人や、肥満し過ぎたポルノ女優や、音楽に合わせて踊り狂う人や、エルヴィス・プレスリーを上手に真似て歌う男や、指先だけを変な風に曲げられる男や、交通事故で大怪我をして脳味噌がはみ出たまま歩く女や、銃で吹っ飛ばされて道に転がる首、撒き散らされた脳漿、もげた手首を咥える犬、血、死体、セックス。

この世界は奇妙なものに溢れている。
我々が洗練をまとうことで隠されることになった、ものごとの裏側に潜む蛮性をリンチは偏愛を持って暴き出す。

ルーラ(ローラ・ダーン)のセリフを借りれば、
"This whole world is wild at heart and weird on top."
(この世界の心部は野蛮で、外側は奇妙だ。)

なんと奇妙で、おかしな現実に溢れかえった世界なのだろう。
その裏には、我々が内包する野蛮な本質がいつも潜んでいる。

この映画の中で赤い靴の踵を3回打ち鳴らして虹の彼方の幸せな世界を目指すルーラが周りの大人たちによって喰い物にされてゆく様は、かつて「オズの魔法使」でドロシー役を演じながら、ハリウッドの映画業界の男たちによってドラッグやセックスによる支配を受けてしまっていた少女時代のまるで奴隷の如きジュディ・ガーランドの姿と重なって見える。
おとぎ話である筈の「オズの魔法使」の中にある悪夢的世界のメタファーが説得力を持って語るのは、いつの時代も変わらず存在する人間の野蛮な本質という動かしがたい現実である。
おとぎ話の世界にある奇妙さは、我々が体験する奇怪で醜悪な現実によって産み出されているのかも知れない。


"If you are truly wild at heart, don't turn away from love."
(—シェリル・リーが演じる良い魔女の言葉—)
そして、もしもあなたの本質もまたワイルドであるなら、自分の「好き」から目を逸らしてはいけない、とこの映画は語る。
愛もまた野蛮な人間の本質なのだと。
「好き」が偏執的にならざるを得ないのは、愛の裏側に蛮性が潜んでいるからである。

この奇妙で野蛮な世界を生き抜くために我々が行使する暴力と愛。
生きていく限りにおいてこのくびきから逃れることはどうやら不可能なようである。
エロスとタナトスは結局のところ同一のエネルギーを起源とする表裏一体の欲動であろう。
それゆえ愛は暴力と同じ位いかがわしいものであるが、この映画ではそのいかがわしさをエンディングで物真似的に歌われる「Love Me Tender」によって象徴させ、同時にこの曲を純粋な人生賛歌として、更には物語全体のカタルシスへと昇華させる。

我々もこの映画の中のルーラと同様に暴力から目を背け、逃れようとして人生という旅を疾走し続ける。
しかし畢竟、野蛮な自分の本質に対峙するという運命に捕まってしまう。
それがこの奇妙な世界の掟だから・・・とこの映画は訴えているようだ。


今振り返ればとてもエキサイティングだった90年代はここから始まった。
でも、あの時代が持つ特異性を超えて、この映画が放つメッセージは普遍的で不滅であろう。
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