オーウェン

三人の名付親のオーウェンのレビュー・感想・評価

三人の名付親(1948年製作の映画)
5.0
このジョン・フォード監督の「三人の名付親」の原題は、「3GODFATHERS」で、フランシス・F・コッポラ監督の名作「ゴッドファーザー」が公開される24年前、1948年の映画で、ウィリアム・ワイラー監督の「砂漠の生霊」のリメイク作なんですね。

三人のアウトローが、銀行強盗をやるつもりで、西部の町に現われるところから、この映画は始まります。
ジョン・ウェインが頭目で、キッドと呼ばれる若い男(ハリー・ケリー・ジュニア)とメキシコ人(ペドロ・アルメンダリス)が仲間だ。

町に着いて早々、彼らは庭いじりをしていた中年男(ワード・ボンド)と知り合い、彼の妻からお茶をご馳走になる。
夫婦は、姪とその夫がニューエルサレムという町からこちらに向かっているのに会わなかったかと聞く。
別れ際に男が革のベストを身につけると胸に輝く銀の星------。
三人はギョッとする。

この三人は銀行を襲って逃げ、ワード・ボンドの保安官は助手を募って彼らを追う。
逃げる途中で水を失った三人が、水場に現われると予想した保安官は、いくつかの水場に先回りして見張りを配置するのだった。

三人は保安官の裏をかこうと、砂漠を横断して別の水場を目指す。
しかし、逃げる時に撃たれた傷がもとでハリー・ケリー・ジュニアは弱り、おまけに眠っている間に馬が逃げ、徒歩で裁くを渡らなければならなくなる。

砂嵐に襲われ、喉の渇きに耐え、やっとの思いでたどり着いた水場は、より深い井戸を掘ろうとした愚かな男によって、ダイナマイトで破壊されていたのだった。

その男は死に、身重の妻が動かなくなった幌馬車に残されている。
その妻も瀕死の状態だった。

かつて我が子の出産を経験したことがあるペドロ・アルメンダリスが赤ん坊をとりあげる。
ジョン・ウェインは、サボテンから少しずつ水分を絞り取り、赤ん坊に飲ませる。
妻は、三人の名前を確認し、名付け親になって欲しいと言い残して息絶えるのだった。

同じ頃、ある鉄道の中継地で保安官は、昔なじみの老婦人と会い、冗談を言い合うが、その時に「メリークリスマス」という言葉があり、ここで我々観ている者は、初めてこの映画がクリスマスの話なのだと知ることになるんですね。

生まれたばかりの赤ん坊を腕に抱える若い妻、立ち会う三人の男、そして、彼女が出発した町はニューエルサレム-----、そう、この西部劇はまぎれもなくキリストの生誕をベースにした、クリスマス・ストーリーなんですね。

赤ん坊を抱えた時から、この悪党三人は次第に変わっていく。
幌馬車の中に残されていたバイブルを読んだハリー・ケリー・ジュニアは、バイブルの中の彼らは、赤ん坊をエルサレムに連れて行く使命を負ったのだと言う。
つまり彼は、自らを"東方の三賢人"になぞらえているんですね。

自分の体が弱っているにも拘わらず、ハリー・ケリー・ジュニアは、子供を抱え、守り、「水を飲め」というジョン・ウェインに「この子の水を盗めるか」と拒否する。

銀行を襲い、町中で銃を撃ちまくった「三人の名付親」の無法者たちも、いつの間にか自分を棄て、赤ん坊のために生きる。
ハリー・ケリー・ジュニアは、赤ん坊のために自分が水を飲むことを拒否して死んでいく。

そして、最後に残った大男のジョン・ウェインが赤ん坊を抱き、ヨロヨロと歩く姿から"無私の行為"とでも呼ぶべき何かが伝わってくる。
自己を棄て他者のために生きる美しさが身に迫る。

このように、ジョン・フォード監督の映画には「詩情あふれる---」と形容される繊細な優しさが、いつも漂ってきて、どの映画も美しい。

「映像の詩人」と呼ばれるほどであり、映像の美しさはもちろんですが、それ以上に人間の美しさを描き続けてきたと思う。

それは、生き方の美しさであり、人の心の美しさなのだ。
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