一部の聖職者は信仰心という隠れ蓑で他者に暴力を振るっている自覚を持った方がいい。
まぁ、こういう周りが見えていないタイプの信仰は精神障害や知的障害とも紙一重のケースが多いし、基本話が通じない。
自覚を持てといっても、最後の警察による尋問への応答が全てをあらわしている。
おそらくこの手の厄介な修道者並びに信者は「神」を曲解して都合の良いように振る舞い続けるのだろう。
霊感商法が話題になっている昨今、
伝統宗教においても儀式に呪術性を帯びていること、こうした儀式と暴力の境界線が曖昧になっている部分を見直す必要があるように思う。
今回は法律を理解してない、
ましてや、中世で形成された教義をそのまま鵜呑みに信仰しているような修道者ばかりだったから、タチが悪い。
学のない擬似良心を持った人間たちの巣窟に片足突っ込むようなことのないように用心しつつ、
信者の減少が一直線の理由は、
ここにあるということを
教会は理解しなければならないと思う。
教会も十色あるなかで、教会そのものを否定するつもりはないが、宗教というのは、
人間の排他性や暴力性が信仰というベールに包まれて露呈するものであることも認識する必要があると感じた。
特にこの修道者たちの場合、良心に従った行為が他者を死に追いやるほどの暴力性を帯びていたことに自覚がなかった。
この映画のポイントは、
一貫した信仰心に基づく行動が、他者を救うこともあれば暴力装置にもなりえる両義性にあると考える。
人間に「聖職者」など務められるわけがないことを、この映画を通してさらに強く確信した。