もりぐち

親密さのもりぐちのレビュー・感想・評価

親密さ(2012年製作の映画)
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以下はメモ。まとめるにはもう一度見ることになる。

濱口の女性の会話は、ドラマが起きているように思われる時の会話との対比がされているのだろうが、少し作為が勝ちすぎかもしれない。

「親密さ」は劇中において夏目漱石の名が2回言及されている。漱石の有名な断片「二個の者が same space ヲ occupy スル訳には行かぬ。甲が乙を追ひ払ふか、乙が甲をはき除けるか二法あるのみぢや」は何かを選ぶことは何かを排除することであると端的に語る。この図式を蓮實重彦は言語の線状性に当てはめる。言語とはその都度における単語の選択と排除によって秩序づけられており、漱石の断片はそれを端的に表しているというわけだ。ところで、良平の詩の朗読においては選択肢を奪うことこそが暴力であり、死はこの暴力の徹底的な形であるとされる。漱石と蓮實の図式によれば言語自体が他の選択肢を常に排除し続ける暴力そのものであるともいえるだろう。またより正確に言うなら、その都度ごとに行われる暴力は「言語活動」であるといえる。このような言語の線状性とヤマザキパンの工場のラインは決して遠くはないだろう。
第二部の演劇のパートにおいてもこの選択の排除という図式が働いているといえる。演劇においては観客は視線を自由に運ぶことができるが、映画においてはカメラによって視点が固定されるから。その都度提示されるショットが視点の自由さを奪いながら、第二部では「映画」が展開されることになる。
一方で、映画と言葉が出来るのは、何かと何かを繋げるということなのもまた事実であるといえる。例えば、イマジナリーラインがそうであるし、舞台の対角線上に位置していた兄妹が向かい合うかのように描くこともそうだろう。うろ覚えだが良平の妹が真之介へ書いた手紙で人は愛によって愛することを学ぶとされていた(はず…)。つまりは人と人は繋がることによって繋がり方を学ぶのだと言える。ゆきえが言葉で話すことは苦手だと言っていたことを思い出すべきでもあるだろう。
第二部において映し出され、また映し込まれる観客や演出家の眼差しがこの映画の観客と交わりすれ違う。このような眼差すもの同士の視点の交錯は映画の特質といえるのかもしれない。演劇においては観客と観客の視線が交わることはないはずだから。
線が繋げるということの肯定的な側面が「電車」として表されている。

ここで思い返されるべきなのは映画は何かと何かを繋げているように見せかけるということである。その顕著な例はやはりイマジナリーラインであるということになる。

「夜の底」の言葉とゆきえと真之助の2人が劇中劇で「眠る」ということについて。

手紙を読むゆきえと観客との関係性。

視線と視線が正面から見つめ合うその間に舞台があり、そこで演技が生起する。

眼差しから眼差しへと人間の存在が受け渡されるその瞬間にこそ「演技」という事件が起こるのではないだろうか。

あなたと私の視点はずれ続ける。だから私は映画を見るし人を愛すると言ってもいいはずだ。

「美は痙攣的なものだろう。でなければ存在しないだろう」
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