葛西ロボ

ばしゃ馬さんとビッグマウスの葛西ロボのレビュー・感想・評価

4.3
 脚本家を目指す生真面目三十路女・馬淵さんと大言壮語のちゃらんぽらん男・天童君のほろ苦いお話。僕自身学生時代文芸サークルにいたこともあって、シナリオスクールでの会話や発表、またキーボードを打ち込む姿に、むず痒くなるものがあった。
 始めこそ何でも利用しようと焦る馬淵と典型的な口だけ天童という”ワナビ”の世界のとげとげしい一面にほげええええええと思いながら見ていたけど、二人が真剣にぶつかり合うことで本当にものを書くことが好きなんだと伝わってきたのが、なんていうか他人事に思えなくてめちゃくちゃうれしかった。でも、本当に好きだからこそ傷つくし、諦めから遠ざかって。それはもう仕方がないですよね。
 ばしゃ馬馬淵さんのすごさを僕は知っているし、ビッグマウス天童の憎めなさも僕は知っている。
 いくら多くの作品に触れて批評眼が養われようと、或いは自分の感性を絶対視しようと、それは自分が生み出す側に回った途端にまるで意味をなさなくなってしまう。作品の良し悪しなんて馬鹿にでもわかる。どこがいいとか悪いとかきちんと説明することだって凡百の人間にできる。しかし、白紙の状態から良いものが書けるかどうかは別の話。いつまで経っても進まない原稿。まるで無いものを持っているかのように振る舞っていたことに気がついて慌ててかき集めようとするのだけれど、やはり無いものは無いのだ。
 継続は力なりを地で行く馬淵さんにしても、書き続けたところで誰の目にも止まらなかったら、光るものが無いのだと諦めたくもなる。何度も砂をこして金が混じっていやしないかと目を凝らしても、その目自体が養われていなかったら自分でも本当にそれがあるのかわからないし、ましてや作品に見える形で表れているのか、表れていたとしてもそれが上の人間の目に留まるのか。留まったとしても儲けにならないと判断されることだってあるわけですよ。
 書くことが好きなだけでは食べていけなくて、でも食べていけなかったら書く意味が無いのかというと、そんなこともなくて。二人がぶつかり合い、認め合ってからの雰囲気にもまた僕には懐かしさがあって、ああいう時間があるからこそ生きていると思うし、また書いてよかったとも、また書きたいとも思うのだ。ただ、作家としては「べつにお金のためじゃないし」と言いながら、その後ものすごい執念で脚本を書き上げてしまう某人物みたいな性格が向いているんだろうなあ。もちろん良い意味ですよ。負けず嫌いこそ高いところに躍り出る。
 ほんとうに好きなものに打ち込んで、撃ち込んで、それでもはね返されて、歴史には価値の無い一つの化石になっても、それは誰のものでもない自分のもの。こんな生き方が許されるような時代を僕はありがたく思うし、そこに温かい視線を向けてくれる映画を愛おしく思います。以上。