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ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン/ブリュッセル1080、コルメス3番街のジャンヌ・ディエルマンのYKのレビュー・感想・評価

4.5
ジャンヌ・ディエルマンという、夫を亡くし息子と二人で暮らす主婦の日常をただ淡々と描く。「描く」というよりは、ほぼ「映す」に近いかもしれない。ドアを開けて、電気をつけて、窓を開けて、布団をたたんで、換気が終わったら窓を閉めて、電気を消し、ドアを閉める・・・。ドラマや感情といった意味付けが一切排除され、観客は人物の動作(とわずかなセリフ)から、物語の展開を自発的に解釈しなければならない。ジャンヌは日々完璧に家事をこなしているが、同じ動作の中でもほんの少し差異が現れると、そこに緊張感が生まれたりする。外から引いて見ている我々は、その差異が気にかかって「ハラハラ」する。高畑勲監督が語る「思い入れ」と「思いやり」の手法の違いで言えば、この映画は「思いやり」の究極型だと思った。

そうした実験映画的な側面もありながら、本作は「女性の映画」としても名が高い。50年前なので、もちろん女性の立場は低かっただろう。おまけにジャンヌは夫を亡くしており、息子もまだ学生のため稼ぎ手がいない。彼女は家にこもって「女性の役割」に徹しながら、息子が学校に行っている間、男を家に招き入れ体を売っている。ふつうだったら映画にならない、女性の家事労働ともいえる風景。それをあえて長尺で見せられる我々は、「つまらない」「退屈だ」と感じるだろうが、そんな退屈でつまらない作業を何百日、何千日も続けている女性がいることを、この映画はメタ的に伝えている。いま見ても新しく感じるこの映画を、1970年代に、しかも当時25歳で監督したというのは衝撃的だ。

個人的には、ジャンヌが使う「モノ」の多さに興味をひかれた。コーヒー豆を入れる容器、粉砕するミル、湯を沸かす鍋に、コーヒーを抽出する別の鍋・・・ジャンヌはそれをポットに入れ替え、マグカップに丁寧注いでいる。1つのこと行うのに使う道具の数々!道具を操る動物こそ人間だが、ルーティン的にまるでロボットのように働くジャンヌを見ていると、次第に彼女が「道具を操る道具」のようにも見えてくる。
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