青雨

インターステラーの青雨のレビュー・感想・評価

インターステラー(2014年製作の映画)
4.0
もしも、息子と妻の視点がなければ、それほど感動しなかったかもしれず、僕個人の領域では今でもそれは変わらない。『メメント』(2000年)や『インセプション』(2010年)が強く心に残っており、自己が揺らぐような作品に僕はどうしても惹かれる。

当時15歳だった息子が、この映画を大好きだと言うので「どこが好きなの?」と尋ねると、答えるかわりに、ピアノに向かってメイン・テーマ『First Step』を弾いたことがある。感動のあまり繰り返し聴いて、耳コピしたらしく、『ベイビー・ドライバー』(エドガー・ライト監督, 2017年)の年齢を生きはじめた彼にとっては、言葉よりも音楽のほうが、世界をよく映すのかもしれないとその時思った。

いっぽう妻は、壮大な宇宙ものが好きという理由だったので、もしもマーフのような娘がいたらと、別のアプローチで尋ねてみたところ、彼女は険しい顔になってこんなふうに言った。

たぶんわたしは、嫉妬に耐えられない。

この一言には、『インターステラー』の核心に迫るものがあって、目の覚めるような思いがした。そのため、クリストファー・ノーランの描き出した「時間の視覚化」というこの壮大なスペースパノラマを前に、むしろ小さな父娘劇の顛末(てんまつ)を僕は面白く思っている。

また、いくつかのノーラン作品の根底に流れる、イギリス文学のような男女それぞれの性の深層が、本作にも宿っているように思う。



妻が口にした一言から、彼女と出会って結婚し、子育てしながら今に至る様々なことを思い出しながら、この映画のことを思った。

娘とはいえ、1人の女として父親に接していることを(たぶん妻もまたそうだった)。父親が何を思いながら生きたかよりも、自分がどう思われていたかを彼女たちは終生の一大事として生きる。わたしがわたしでいるだけで、ただ1人の「このわたし」がどれだけ特別でいられるか。そのことを映し出す鏡のようなものが、彼女たちにとってのセックス(性)なのかもしれない。

そのため、行為をはさんだ男女の関係である必要はない。生前にたくさん交わした母との会話や、そのなかで母が見せたさまざまな感情を振り返ってみても、そうだったことが分かる。

いっぽう、男にとってのセックス(性)もまた、本質的には行為のことではない。また、その在りようは、女性と鏡像関係のようになっている。おれはおれから遠く離れることで、無数にいる「おれではないおれ」として、どこまでたどり着けるか。そのゼロ地点のような場所にこそ永遠はある。

男が急いで行為へと走る理由は、身体的な欲求によるものが大きいとはいえ、無意識的な衝動としては、その永遠へと向かうゼロ地点を、肉体的な直接性で感じとりたいためだろうと思う(射精で得られる快感は、無へとなだれこむカタルシスとも言える)。

もしかすると、女はそのことを直感的に知っているのかもしれない。男が目指すゼロ地点、そのカタルシスに「このわたし」は決していないということを。

男女それぞれのこうした傾向を言い表すときに、妻と僕との間で共有している考えに「精子・卵子説」という造語がある。男は精子の在り方によって、女は卵子の在り方によって、おおよその説明がつくというもの。哲学の1分野に身体論があるように、その延長として、僕が真剣な遊びとして考えたものになる。

精子:無数にいる「おれではないおれ」
卵子:ただ1人の「このわたし」

このことを本作に適用すると、このようにも見えてくる。



自分が見捨てられたと思い、ずっと父クーパー(マシュー・マコノヒー)を恨んでいた娘マーフ(マッケンジー・フォイ/ジェシカ・チャステイン)が和解するのは、彼女の部屋で、父親からのメッセージを受けとったとき。そのときマーフは、父親にとって、ただ1人の特別な存在「このわたし」であることを確認できた。会えないことも寂しい。しかしそれよりも、「このわたし」でなかったことに彼女は深く傷ついていた。

妻の一言がなければ、この機微は僕には分からなかった。また、妻が「もしも娘がいたら嫉妬に耐えられない」と言ったのも、「このわたし」の奪い合いになることを知っているからのように思う。妻である「このわたし」が、娘としての「このわたし」に勝てるわけがない。彼女はたぶん、そう感じた。

いっぽう父クーパーは、ブラックホールという永遠のゼロ地点から、娘にメッセージを送ることになる。未来の人類によって開かれた、5次元というディメンション。この描写こそがやはり本作の最大の見所であり、何度振り返っても面白く感じる。

僕たちが、普段意識することなく生きているこの世界は、縦・横・奥行きという3次元に、時間という1次元が加わった4次元であり、もしも3次元世界に住んでいたら、時間による移動が得られないため、絵画のように遠近感はあっても、立体として対象を見ることはできず、おそらく認識するという時間的な行為も不可能だろうと思う。

この『インターステラー』では、5次元世界のなかで時間が可視化できた場合に、どのように映るのかを、壮大なパノラマのなかに見せてくれる(そのとき時間は、多層的な空間になる)。

けれど、僕の関心は父娘関係にある。父娘とはいえ、厳然として横たわる男性性と女性性。そのように、小さな父娘劇としてこのシーンを観るなら、父クーパーは無数にいる「おれではないおれ」から、娘マーフの「このわたし」に向けて、自身をどこまでも無化していったことになる。父は男として、ゼロ地点に永遠(普遍)を求め、娘は女として、ただ1人の「このわたし」の特別さを求めた。

クーパーが発したメッセージは、人類の未来のためにという「普遍」であったいっぽう、マーフがそのメッセージから受けとったのは、「このわたしという特殊」だった。そのため彼女にとって、メッセージの内容はそれほど重要ではなく、「このわたし」に向けて、父が語りかけたということが重要だったのだろうと思う。だからこそ、彼女は父を許すことになる(おそらくは女として)。



また父クーパーが、老齢の娘マーフ(エレン・バースティン)に促され、アメリア(アン・ハサウェイ)のいる惑星へ向かうラストシーンも印象的だった。

3つ候補としてあった惑星のうち、唯一生存可能だったのが、アメリアが「このわたし」を求めた場所だった(つまりは恋人がいる惑星)。普遍を求めた理性よりも、結果として、特殊を求めた直感が正解だったことになる。

けれどこれは、女の直感や都合が勝利するということではなく、永遠のゼロ地点へと向かおうとする男性性(普遍)と、唯一無二であろうとする女性性(特殊)が交差する先にしか拓けない未来もある(もしくは今という未来は、その交差の先に結ばれている)。僕にはそんなふうに感じられるシーンだった。

ノーランがそう描いたかどうかは知らず、また興味もないものの、僕のなかの男性性と妻のなかの女性性とが、この映画をそのように見せたとも言える。言葉よりも音楽の美しさに自己を解放した息子と、妻の直感的な一言が引き金となった。
青雨

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