まえだ

インターステラーのまえだのネタバレレビュー・内容・結末

インターステラー(2014年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

「未知を認めるのが科学」

クロード・レヴィストロースが提示した「栽培種の思考」/「野生の思考」
柄谷が提示した
「特殊-一般軸」と「単独-普遍軸」
2人の対概念の前者が現代のシステムを駆動させていることは間違いない。

そして科学的思考はその"土台"をなしていると思っていた。

しかし、この映画が私たちに見せたものは、「科学の出発点とその帰結において重要なことは「野生の思考」と「単独-普遍軸」である」ということであった。

この映画において出発点とその帰結が同じであるという観点はある重要な1つのイメージを浮かび上がらせる。

それは劇中でクーパーに「ワームホール」説明するためにロミリーが使ったメモだ。
その両端に同じ印が書かれたメモはロミリーによって2つに折られて印の位置が重なり合う。

これは科学が生まれた地点とその帰結が同じであるということを示しているのではないか。そうだすれば今私たちは科学の根本的態度からかけ離れた場所にいるのではないか。私たちは未知なもの、野生なもの、単独的なものを認めようとはせず、その代償として「専門的知識」と「専門家支配」の矛盾及び誤謬に「閉じ込め」られているのではないか。

話を戻す。もし私たちがその折り重なった2つの地点の逆の端に入るとすれば、私たちがすべきことは簡単なことだ。
その根本的態度へと「折り返す」だけだ。

関根康正が刊行中の『ストリート人類学』で示したとおり、「折り返し」には自己の限界点により、現れた他者に依拠する必要がある。
それは簡単であると述べた「折り返し」が現代において、非常に難しいことを示している。

「栽培種の思考」「特殊-一般軸」に支配された私たちの生活世界の中で、単独性に依拠した科学的思考は可能か?

クーパーは閉じ込められ、自己の限界点を迎えた最後のシーンで、娘マーフという単独性に基づくコミュニケーションにおいて、それを成し遂げた。

であれば、私たちにも可能なはずである。

来るべき、その時点において、
迎えつつある、人類の限界点において、
私たちは未知なるものに遭遇する。
その時現れた他者性を私たちは認めることができる。
なぜなら「未知を認める」ことは
科学の根本的態度であるのだから。
まえだ

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