だた

なみのおとのだたのレビュー・感想・評価

なみのおと(2011年製作の映画)
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震災当時はまだ小学5年。今となっては授業の様子なんて全然覚えていないのだが、あの6時間目の算数の授業はずっと覚えているのだろう。とは言っても被害と言ったら家のテレビが落ちそうになったことくらいなもんだし、親を校庭で待っていた時なんか、さっきまで揺れていた大地の上で逆立ちをしていたくらいだった。

それでも
机の下で意外な子が泣いていたこと。
けど誰も馬鹿にしなかったこと。
子を迎えに来た親たちの車が道路に不自然と並んでいたこと。
普段は真顔の体育会系の怖い先生が道路でおっさんに頭を下げていたこと。

そんなつまらないことはよく覚えているし、「非日常」の原初的な体験の1つとして僕の記憶に保管されているのは多分確かだと思う。しかし、忘れがたい体験だった一方で、僕の中で震災はテレビの向こうにある圧倒的に他者であって、その他者を家族として招き入れるかのように非日常を日常として受け入れねばならない過酷さを背負った人々が地続きの約200キロ向こうにいるだなんて考える余地はなかった。幸せなことだ。

それから8年。統計は勿論ないが、明らかに今年は震災が格段に風化してしまったように思う。それは僕個人的の問題でもあるし、いまだに一世一元制を採用して騒いでいる国規模の問題でもある。ただ、それに対して危機感があったから。勿論、濱口竜介というネームに引きつけられたのが圧倒的理由だろうが、、だから本作を観た。

やはりテレビとは明らかに彼らの声が違う。
監督によるインタビュー形式をとった部分こそメディア的な陳腐さはあったが、濱口竜介イズムを感じさせる被災者同士の対面形式パートは静かに常軌を逸していた。特に3人の消防団のパートはカット割りの灰汁が強いが、その分、後のパートが違和感なく消化できる。お互い既知の関係にあるもの同士が形式的な自己紹介をするという奇妙な嚆矢によって気恥ずかしさが抜けるのだろうか?これについてはやってみないと分からないが、それによってインタビューアー、もしくはインタビューイーが個人としての枠を超えた「一人」にとして存在し得る機運を高めているように感じる。

多分普通にやってみてもあんな親しくカメラの前で喋れないと思う。我々は日々日常から「役者」であるが、それを自覚して生きてはいない。最初の自己紹介というのはそれを自覚させる一種の儀式的なものであり、が故に無垢として自身を演出する役者「一人」として矜持を持って自らを晒すことができる。というのは僕の仮説だ。

どこに向かうのか分からない会話が有する緊張感はそのままに、カット割で会話のリズムを演出する映画的な面白さがある。上手くは言えないが、これは一番最初の紙芝居的な奇妙な説得力があるし、恐らくそれで最初に紙芝居なのだと思う。本人が自らの人生の一片を物語へと昇華して語るということ。そういう意味では、日本における男女の通俗的な関係を感じさせる潜水士の夫婦の話が個人的には一番印象的でよく分からない涙が出た。最後の姉妹の話に出てきた海に寄せる故郷の話も埼玉県民の僕には羨ましくもあり、同時に不思議と分かるような気がした。

現地に行くのが一番何だろうけど、メディアのは発達した現代において、表現の探求を通して他者じゃない震災の記憶を残すことはそれと同じくらい大切なことだと思う。そう思った6時間だった。
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