青雨

インセプションの青雨のレビュー・感想・評価

インセプション(2010年製作の映画)
4.0
クリストファー・ノーランにとっての、おそらく1つの分岐点となった作品が、この『インセプション』のように思う。本作を通過することで、初期作品に見られる心理現象の映像化から、映像としての物理現象の官能へと明確に切り替わっていった印象がある。

また、いっぽうで思うのは、どこかイギリス文学にも通底するような2つの極で揺れ動く登場人物の描写がある。

ノーラン作品の面白さは、初期作品の心理現象から、後の物理現象の視覚化へと移り変わっていくなかに、こうした文学的な要素が織り込まれている点にもあるように思う。この点については『インターステラー』(2014年)に譲るとして、男女がそれぞれにもつ性の深層が、根底に流れているように僕は感じている。



本作に描かれるコブ(ディカプリオ)には、男性的な愛がどのような姿をとるのかがよく表れているように思う。

男が女を愛するときの1つの典型のような趣きがあり、いくらか変奏されることはあっても、メインテーマはコブのようになっている。女にとって、それが嬉しいことなのか、そうではないのかは分からないものの、男の愛は深まるほどに、彼がたどった経路をたどるように思う。

この映画をはじめて観たときには、その愛の有りように深く頷きながら、また同時に、クリストファー・ノーランの明晰さを感じた。

普通であれば、夢を4つの階層に分けて、どんどん降りていくような話を作る場合には、どこかにジークムント・フロイト(1856-1939年)やカール・グスタフ・ユング(1875-1961年)が唱えたようなものが出てくるだろうと思う。しかし、本作にはそれらしいものはいっさい出てこない。一般的には、どこかしらそうした要素を描くことになるように思われるものの、ノーランの明晰さが上回ったように感じる。

そうした意味で、ノーランの知性や感性は、アルフレッド・アドラー(1870年-1937年)に近いのかもしれない。過去よりも未来へ。本作を撮ったあとに、地球の外側へと真逆の舵をきった『インターステラー』を撮ったのも分かるような気がする。

そのため、彼の描く「夢」はどこかテーマパークのようであり、情念が混沌のなかで錯綜したり、闇の奥に隠された「影」のような存在も出てこない。亡くなった妻モリー(マリオン・コティヤール)もまた、はじめは「影」のような雰囲気で登場するものの、そうではないことがやがて分かる。

また、この作品にはオリジナルの用語がたくさん出てくるものの、すべては世界像(ファンタジー)を立ち上げるためのものであり、現実の何かを象徴させている訳ではない。つまりノーランは、象徴や暗喩にも興味がないことが伝わってくる。

暗喩に代表される虚構のもつ意味とは、形としてはつかまえにくい物事をある舞台にのせることで、その振るまいのうちに真実を把握する営みだとするなら、この作品は、そうした真実をつかまえようとはしていない。

真実のための虚構ではなく、虚構のための虚構であり、そのため僕にとっては映像のテーマパークという印象が残ることになった。完璧な設計という職人芸。

その結果、過去へのとらわれや刷り込みなどを表す「インセプション(情報の植えつけ)」という行為はどこか記号的であり、「エクストラクション(情報の抜き取り)」の対語ほどの意味しかない。いっぽう「インセプション」によって絶命するに至った妻モリーについては、先に述べたようにイギリス文学に通底するような文芸的な味わいがある。

彼女が命を絶った原因は、表層的にはコブが行った「インセプション」によるものの、「私が死んだらコブを疑って」という手紙は、文芸論的にはインセプションを指したものではない。そうではなく、コブが彼女に示した愛は彼女にとってあまりにも完璧だった。あまりにも彼女を満たしてあまりないものだった。そんなものを手に入れてしまった後で、女はいったいどこへ向かえばよいのだろうか? この先、それを失っていく人生しか待っていないというのに。

彼女が命を絶った真の理由は、そうしたナイーブな引き裂かれのうちにこそあった。「疑って」と指したものは、手紙の言葉どおりコブ自身のことに違いないものの、インセプションのことではなく、彼の示した愛のことだった。しかし男の愛は、女を絶望させてしまうほどの深みを本来的に目指す。

永遠にまわり続ける駒(トーテム)のように、それは夢のなかでしか実現することはない。だから男たちは、その夢のなかに女を連れていこうとする。どんな「キック」でも目覚めることのない、圧倒的な愛で包み込もうとする。たとえ世界の周縁が虚無に満たされていようとも。

本作にはノーランの初期作品に見られる心理現象から、後の物理現象へと変遷していく分岐点がよく表れており、また同時にその作風の底流に流れる、こうした男女の文学的な要素も宿されているように思う。
青雨

青雨