がみおー

GODZILLA ゴジラのがみおーのレビュー・感想・評価

GODZILLA ゴジラ(2014年製作の映画)
4.3
この作品に関しては劇場で5回、ブルーレイにて4回、地上波にて1回と計10回は観ているのだが、何だかんだでレビューしていなかったので今更ながら。

12年ぶりの国産ゴジラ、「シン・ゴジラ」の公開後、やけにこの俗に言うレジェゴジを無闇やたらに批判する声を頻繁に聞くようになった。全く持って悲しい限りである。シンゴジラも間違いなく最高のゴジラ作品であるが、私からすればこの作品も、ハリウッドによって今作ることの出来る最高のゴジラであったと間違いなく感じている。

邦画業界は金がないから思うように映画を撮ることが出来ないとよく噂されるし、実際に関係者が「ビッグバジェットのハリウッドと同じにするな(意訳)」などとツイッターに投稿して無事炎上したりもしていたが、ではハリウッドではビッグバジェットによって本当に好きなように制作出来ているのだろうか。私はそうは思わない。
様々な監督による様々な作品がハリウッドにはあるが、ここ数年のハリウッド映画の予告編が一部を除いてどれも似たりよったりに感じるのは結局は権利側のトップ達が「この要素を入れろ」「これを入れたら売れる」と制作側に多かろうが少なかろうがとりあえずそういうシーンを注文するからであろう。制作側はそのノルマを達成しなければならないし、それによって制作を続ける事ができる。
結局は制作費の違いこそあれどそう、日米においてそう大差はないのである。上のお偉い方に今のエンターテイメントを理解出来ている人がどれくらいいるかは違うだろうが。

そんなこんなで色々な制約に縛られながらもギャレス・エドワーズ監督が自身のゴジラ及び他の怪獣映画への愛を出来る限りぶつけた、言わば彼のファンアートとしての作品がこのGodzillaである。

このGodzillaにおけるゴジラ像というのは、これまでの「放射能の産物」「災害の象徴」「国民的キャラクター」「人類を守るヒーロー」など、シリーズによって様々な顔に変えたこれまでのゴジラのイメージを全て含んでおり、怪獣王の復活におけるキャラクター付けとしては完璧である。要はこのゴジラが広い範囲を押さえたエンタメ方向を向いてくれたからこそ、シンゴジラにて尖ったゴジラを出す事が出来たと言っても過言ではない。そもそもこのゴジラがなければシンゴジラは制作すらされなかっただろうが。またビジュアルにおいては熊をベースにした体型で、若干おっさんのような風貌である。これがまた怪獣王として凛々しくもありCGによる豊かな表情を加えられることによってある種の動物的かわいさも滲み出てくる。これがまた良い。

本編における家族ドラマ、これは前述のようにハリウッド映画のノルマのようなものである。確かに大した魅力はないがもはや仕方のないことなのだ。ハイゼンバーグな父親は確かに生きていて欲しかったが、両親をMUTOに殺された主人公がMUTOの卵(子ども)を爆弾で焼き尽くすというのは対照的な復讐劇も兼ねていると考えれば演出として充分にありだろう。
そして核の扱い。原子力発電所を襲うMUTO、それを倒しにゴジラも上陸、とりあえず核を使いたがる米軍、そしてそれを制止する芹沢博士、結局制御不能となった核爆弾を海上で爆破。核の存在によってMUTO及びゴジラによる災害が発生している描写によって、核を生み出した人類への罪を示唆する事ができる。また、軍隊が核に引き寄せられたMUTOや核によって生み出されたゴジラに対して何も有効打を持っていないこと、またそれに所属する主人公が爆弾解体のプロながら核爆弾を解除出来ないという描写によって、人類は自ら生み出した核に対してどうする事も出来ないというメッセージ、及び最終的に何でも核に頼る他のハリウッド映画への批判まではいかずとも、アンチテーゼにはしっかりと成り得る。

日本の映画であればはっきりと米国を敵にすれば国民は満足するだろうが、米国の映画ではそうもいかない。代わりに無能にすることによってゴジラの伝統を守りつつ、ゴジラシリーズにおけるメッセージ性も描写する。勿論このGodzillaだけという訳ではないが、これをアメリカの作品でやるという事に大きな意義があるのである。

ストーリーの大筋は平凡なハリウッド映画であるが、その中でゴジラのキャラクター性とメッセージ性をしっかりと描ききった所は紛れもなく評価すべき点であろう。
思い出して欲しい、完璧なゴジラ映画など存在しないのだ。この作品もまた、完璧ではないゴジラシリーズに名を残す。心を広く持てば、ゴジラ映画は作られる事こそに意味がある。